我慢すること
幼い頃から、「我慢しなさい」とあまり言われてこなかった。私の母は普通の人よりも感情のタンクが大きいので、喜怒哀楽がはげしく辟易させられることもしばしばだが、子供のときも大人になってからも感情や思考を抑え込まれた記憶があまりない。だからなのか、私たち姉弟は好きなことを仕事にし、それで生活している。好きなことをしているので、働くことのストレスをあまり感じたことはない。他人から見ると、ひどい職場環境だったり、驚くほどの薄給でも、さして辛いと思ってこなかったので我慢はしてこなかった。しかし、私のように仕事と向き合っている人は比較的少ない。それは普通の生活でもそうである。子供だから、大人だから、女性だから、男性だから、それぞれの立場がもつ役割を全うするために、はみ出したそうなものは、なるべく「我慢」する。日本ではそれを美徳と考える向きがある。東京オリンピックでとりあげられた「わきまえる」という言葉はまさに「我慢」をすこしソフトに表現したに過ぎない。本当は意見を言いたいけれど会議を長引かせたくないから、私の意見など取るに足りないものだから、立場をわきまえ発言をひかえることにする。そして、このわきまえた行動は分相応な良い行いとして当時のリーダーが表現したので、心底驚いてしまった。では、なぜこのような我慢を美徳とするような風潮が起こってしまったのだろう。
もともと「我慢」は仏教由来の言葉であり、「mana」というサンスクリット語を「慢」と漢訳したもののひとつである。「慢」は思い上がりの心の意味で、7つに分類されている。「慢」「過慢」「慢過慢」「増上慢」「我慢」「卑慢」「邪慢」。先の「我慢」とは、自分に執着することからおこる、慢心のことである。つまり、決して良い意味は持ち合わせていないのである。仏教には「無我」という思想もある。自己や自分のものだと思っているものに対する執着を捨て去り、涅槃の境地を目指すというものである。が、それと同時に真実の自己を探し求め、見つけた自己をよりどころとして、自分自身を救えという真理もまたある。つまり、「我」は否定されるべきものと肯定されるべきものの2種類を内包しているのである。とりわけ、日本人は「和」を生活の基盤としてきたために、この「我」という自己をよりどころとする生き方は出過ぎた印象を持ったのかもしれない。あるがままの自分を受け入れること、まわりに影響されず、あるがままの自分をつらぬくことは「わがまま」なことに感じるのだろう。そして、自分をつらぬくことは、自分の欲を表明し、成就させようとしていると感じてしまうのである。欲深い姿は恥ずかしい姿なのだ。我慢=美徳と感じるは、耐え忍んぶ姿こそ、欲を抑え込むことに成功した、高尚な人物ということになるのかもしれない
日本人の思想の根幹にこの「我慢」がある。我慢、忍耐、努力、精進。。どれも欲を封じ込め、耐えしのぶ要素が多かれ少なかれ含有されており、この行為をなし得た人は称賛に値し、どれもこれも美徳として認識される。これを外国の人に説明することは非常に難しい。何かを成し遂げるためにチャンレンジすることはわかるが、耐えるという行為は不要なものに映るだろう。耐えなければいけない条件があるのなら、改善すればいいのだから。それがトレーニングなら、話は別だが、そうではないのに、改善しない行為は不思議で仕方がないだろう。我慢や忍耐をすべて否定するわけではないが、そのような状況に陥ったら素早く改善策を考えた方が、結果、良い方向にすすむと考えている。いま、我慢している人に言いたい。無駄な我慢ほど無駄なものはないと。おなじゴールを目指すなら我慢などせず、楽しんですすむ方がずっと早いし、良い結果が得られるのだから。
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