人工知能(記号主義とコネクショニズム)の臨界点。東洋哲学と西洋哲学の違い。
皆さん、こんにちは。久保家です。
久保家のリビングにはホワイトボードがありまして、毎朝、そこに夫が考えたことを描いて、朝ごはんを食べながら夫婦でディスカッションをしているのですが、その内容をコンテンツとしてまとめてみようというのが、今回の試みです。
先日は「第一次から第三次までのAIブームの流れ」をまとめましたので、本日はその続きで、「記号主義とコネクショニズムの臨界点」についてお話をしたいと思います。
○ディープラーニングを東洋哲学の視点から見る
さて、AIブームには「記号主義」と「コネクショニズム」という2つの流れがありました。記号主義は、シンボルによる人工知能であり、最初から分けて考えます。一方、コネクショニズムは、ニューラルネットによる人工知能であり、よくわからないものを分けられるようになります。
最近、注目を集めている人工知能が「ディープラーニング」で、これはコネクショニズムの流れを組むものです。学習するとは分けることです。世界を分けることで理解することで、理性を進めるのが、西洋のアリストテレス以来の伝統(範疇論)です。人工知能も、その路線に従って、世界を分かち、論理に従って思考する存在として構築されました。
「知」:学習するとは分けること。
ディープラーニングは、よくわからないものを分ける機械です。要するに、分解大魔王です(笑)ハンガリー出身の経済学者カール・ポランニー(ポラニー)が、その著書『大転換』の中で「資本主義とは個人を孤立化させ、社会を分断させる悪魔の碾き臼である」という言葉を紹介しています。 資本主義が高度に発展した時代に、ディープラーニングが出てきたのは、偶然ではないでしょう。
資本主義とは個人を孤立化させ、社会を分断させる悪魔の碾き臼である。
「自己組織化マップ」という概念があります。インプットされるデータが、自ら近い距離の集団に集まることです。例えば、ネコと犬とオオカミの写真があるとしますね。これを分類するのがニューラルネットです。いままでは、人工知能分野における職人さんが分類するためのルールを作って、これはこっち、これはあっちと分けていたわけです。それが、ディープラーニングを使うと、そのロジックはブラックボックスなのですが、人間よりも上手に分けられるようになりました。
脳というのは「近さ」にしか興味がありません。脳、つまりニューラルネットの仕組みは、あるニューロンとあるニューロンのつながりを、「重み」を変更することでつなぎ変えていくだけです。何か深遠なもののように感じますが、物理的な構造だけ見れば、単なる電気回路に過ぎないのですね。その脳の機能を機械に取り入れたら、人間を超えてしまったわけです。
脳は「近さ」にしか興味がない。
この流れを東洋哲学の視点から見ると、人工知能はニューラルネットによる知能と世界の分節化、それは「偏見に陥ること」であるわけです。東洋哲学では、「知」は形而下学の領域になりますので、形而上学から見れば小賢しい「小知」になるわけです。つまり、ディープラーニングは、機械に人間の偏見(小知)を教えようとしているわけです。ちょっと話が飛躍しましたので、東洋哲学の考え方についてお話をしたいと思います。
分けること、それは偏見に陥ること。
○すべては混沌の流れである。小知では受け止められない。
西洋哲学では、人間は自然と対立する存在として位置づけます。しかし、東洋哲学では千変万化する混沌の中に人間も含まれていると考えます。本当の真理は、混沌の流れの中にあるのであって、人間が持つ言葉や概念といったものは、すべて小賢しい「小知」に過ぎない。つまり、分けること、これが「知」ですが、そんなものは小賢しいというわけです。ものすごい抽象化された大上段から、ズバッと「トップダウン」で叩き斬るのが東洋哲学の特徴です。
東洋哲学は、トップダウンで「関係性」を削り取る。
言葉だけだと禅問答になりそうなので、モデルをつくって説明します。ホワイトボードをご覧ください。世界とか、宇宙とか、無とか、道とか、混沌とか、いろいろな言葉がありますが、森羅万象のすべて説明できる「何か(粗存在のゼロポイント)」がありまして、そこから分化して知能(識)ができるわけです。つまり、分化されたものは全体ではなくて、部分に過ぎないわけです。本質ではなくて、現象に過ぎない。ですから、本質に立ち返れというのが東洋哲学です。(左図を見てください)
そのように聞くと、プラトンの「イデア」論が浮かびます。現実世界に存在する物体や概念はすべて影であり、真実在=イデアは天上界にあると考えます。イデアが存在しているのがイデア界が「本質」なら、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む世界は「現象」になります。プラトンの場合は、イデア界と現実世界を明確に分けて考えますので二元論になります。論理的な思惟ですね。普遍的な本質は「情報」であり、個別的な現象は「物質」ともいえます。
西洋哲学は、本質を情報、現象を物質に分けて考える。
西洋哲学では、物事を分けて行くことで、その要素の関係を論理的・因果律と捉えて、そこに構成を見て、その要素を構成していきます。ボトムアップで考えるわけです。「思考のアルファベット」という言葉がありますが、26文字のアルファベットを使って、全世界を構築するのが西洋哲学です。
西洋哲学は、ボトムアップで「要素」を組み立てる。
しかし、東洋哲学では物事を分けて考えようとする人間を、物事を分けない場所まで導き修行するアプローチを取ります。東洋哲学は本質的に一元論です。現実の背後に広大な「一」という世界があるのです。物事を分けない場所を、混沌とか、道とか、阿頼耶識とか、存在のゼロポイントとか、一なる全とかなど、さまざまに言いますが、そもそも言葉を使った段階で「分けて」いますからアウトなわけです。その根源の「何か」からグワッっと、 一気呵成に人間に至る生成の流れを見るのが東洋哲学です。
西洋哲学から見ると、東洋哲学はトートロジーと矛盾の中で本質を言明していると見えます。だから、間違っているか、何も言っていないように見えます。つまり、ゼロということです。一方で東洋哲学から見ると、西洋哲学は最初から欠落しているわけです。あまりにも方法を限定しすぎていると見えるわけです。
西洋哲学から見ると、東洋哲学はトートロジーと矛盾の中で本質を言明しているので、間違っている。
東洋哲学から見ると、西洋哲学は最初から欠落している、あまりにも方法を限定しすぎている。
例えば、実体(混沌、森羅万象)を卵みたいなものとしましょう。知能というのは、その上に投げかけられた言語記号の網状の枠組みに過ぎないわけです。記号主義は、記号の網です。コネクショニズムは、分割するだけです。網はあっても、実体がありませんので、世界を受け止められないわけです。(右図を見てください)
記号主義とコネクショニズムでは、世界を受け止めることができない。
東洋哲学では、はじめからすべてが与えられる。すべてがそこにあると考えます。それが、混沌であり、道であり、無であり、理であり、存在のゼロポイントでわけです。最初から全体があると考えないと存在し得ないものなので、構築的にはたどりつけません。よって、人工知能は作られる存在ではなく、生まれる存在でなくてはなりません。「創造」で考えるか、「存在」で考えるかの違いがあるわけです。
「創造」を頭で考えるか、「存在」を身体で考えるか。
いかがだったでしょうか。東洋哲学を言葉で伝えようとすると苦しいですね。何も言っていないように思われてしまう。皆さん(妻は)どう思われますか。