自意識過剰

自意識過剰である。自意識過剰は年月と共になくなっていくと本で読んだことがある。僕が三十歳、四十歳になったら、こんなことはなくなるのだろうか。
街へ出て、人とすれ違う度に強く見られている感覚を覚える。みんな僕のことなんて見ていない。そんなことはわかっている。それでも僕は克服できそうにない。
外食に行く時、店員さんに(こいつはこんなものを食べるのか)と思われているような気がして同席している家族や友達に注文してもらう。店員さんが料理を運んできた時もそれが自分の頼んだものだと知られたくないので、(~をご注文のお客様)と言われても手を挙げるのに羞恥心を感じる。これも店員さんは僕のことなんて気にしていないと知っている。     しかし、僕は気にしている。きっと僕だけが気にしているのだ。
 僕は一人で買い物に行けない。自分が何を必要としていて、何が好きかは人に知られたくない。僕は髪の毛を切るとき母親の知り合いの美容師さんに切ってもらっている。小学生の時から同じ人に切ってもらっているがそれでもどんな髪型にしたいか伝えられない。唯一の注文はセットをしなくても成立する髪型であることだけだ。本当は(もっと前髪を重く)とか言いたい。美容師さんは僕の意見を求めている。でも自分の意見を聞かれるのは恥ずかしく感じる。昔から僕のことを知っている美容師さんなんて僕の意見を聞いてくれるに決まっている。そんなことは僕が一番わかっている。でもとなりの席で髪を切っている人がしたい髪型を伝えているのは感嘆してしまう。僕だけが気にしているのだ。
 自分で注文できるようになりたい。
 僕は大学受験の対策に東京に勉強しに行ったことがある。兄の家に泊めさせてもらい、日中は塾講に出て、夜はカフェで勉強した。その時もふとした瞬間に周りの目が気になり、店内を何度もキョロキョロ見回した。日付が変わるころには数人しかいなくなった。僕の集中力は一気に加速した。静かな店内に一桁ほどの人間の目しかないあの環境はそれまでの店内より心地よく感じた。僕はアイスココアが飲みたかった。店員さんに(アイスココアなんて子供か!)なんて思われないか気になった。不安になった。僕は店のおすすめと書いてあったコロンビア産のアイスコーヒーを頼んだ。ブラックコーヒーが飲めないわけではないがココアを欲している身体にはやや苦く感じた。東京で生活する間、毎日そのカフェで勉強した。

そんな僕にも恥ずかしくないことがある。僕は本屋での買い物だけは店員さんを気にしない。だから本が好きなのかも知れない。そもそも本にはあらゆる種類があって作家さんがそれぞれの立ち位置から話を描いている。正解のない読者側に判断を任せるあの感じが僕の自意識過剰を忘れさせているのかも知れない。
 一人で本屋を回る姿を僕はかっこいいと思っている。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?