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きょうだい児8歳の夏(預けられた2つの家での孤独)その3

 鎌倉にいたのは、10日間くらいだったろうか。保育ママと彼女の2人の息子と一緒に出向いたけれど、現地には保育ママの姉か妹と2人の娘がすでに来ていた。
 その家の主である保育ママの父親は、入院中だったと記憶している。
 なぜなら早く元気になるように、と皆で千羽鶴を折ったからだ。
 イニシアチブを取っていたのは、一つ年上の女の子(保育ママにとっては姪)一日のノルマを決め、せっせと折り続けた。
 私ももちろん参加していたけれど、私の知っている折り方とは少し違っていた。私のやり方の方が簡単で、早く折れるので男の子(保育ママの息子たち)に、
「こうやると簡単だよ」
 と教えた。
「あ、本当だー」
 感心してくれて、
「ねぇねぇ、稀沙ちゃんが教えてくれたんだけどさー」
 と女の子に伝えた。彼らは、いとこ同士ということになる。
 女の子は、
「そのやり方だと、余計な線がつくからやらないで!」
 と彼に向かって言った。
 私は、彼女とはもちろん初対面で、良かれと思って言ったことを、このような冷たい言い方で却下されたのが、とてもショックだった。
 そう、ここにいる人達の中で、私だけ赤の他人だということを、改めて思い知らされたから。
 本当は、私さえいなければ、いつものように楽しい夏休みが過ごせただろうに。
 そんな申し訳ない気持ちを抱え、全くなじめずに早く時間が過ぎていってくれることだけを願っていた。
 毎日海辺の近くのプールに行った。海水プールなので浮きやすく自然と泳げるようになったけれど、それを話せる相手などいなかった。
 私は保育ママの家族と同じ部屋で眠っていた。けれど、心がどうにも安定していなかったのだろう。早朝や夜中に起きてしまうことがよくあった。そんな時、いつも以上に悲しくなってしまい、勝手に涙があふれ出て、止まらなくなってしまった。
 私は保育ママが眠っているかどうか確認した。たいていは寝入っていたので、そこで安心して涙を思いきりこぼした。
 感情を解放したことで、涙は泉のように湧いてきた。そのうち、呼吸が乱れ、しゃくりあげてしまった。保育ママをチラッと見る。良かった。起きていない。
 そう思うと、ますますしゃくりあげは激しくなり、さらに少し声をあげて泣くことを自分に許した。
 ある時母が、鎌倉まで来た。けれども、保育ママの実家まで来る時間の余裕はなかったようで、私が鎌倉駅まで出向いた。
 多分保育ママが、車で連れて行ってくれて、母とは駅の改札あたりで待ち合わせしたのだろう。保育ママは車の中で待っていたのだと思われる。きっと母娘水入らずのひとときを邪魔しないように、という配慮だったのだと思う。
 でも。
 実際は、そんな美しいものではなかった。
 母は、7分袖のオーガンジーのワンピースを着ていた。茶系の花柄。
 母を見つけた私は、近寄って行ったけれども、決して抱きついたり、歩み寄ったりはしなかった。
 やはり、怖かったのだと思う。いつも怒っていて余裕がなく、何を言っても何一つ叶えてくれない。
 この日もおにぎりの時と同じく、晴信が大変な時に鎌倉くんだりまで遠出させてしまい、悪いなとは思ったけれど、来てくれて嬉しいという気持ちは、あまりなかった。
 私が歩みを止めたのは、母の一メートル手前。
 母は、保育ママに渡す手土産などを私に渡し、その説明を始めた。
「あ、やっぱりね」
 その一メートルの距離を縮める気配が全くないことを知り、私はここでも抱きしめてもらえない飢餓感にも似た思いをたっぷりと味わっていた。
 ふつう。
 こんな状況だったら、母親の方がしゃがんで視線を合わせ、
「寂しい思いをさせてごめんね」
 とか、
「もう少しのガマンだから、待っていてね」
 とか、声をかけないだろうか。
 本当に、不可解だ。私は、全く母の手のぬくもりを知らない。知っているのは、無理やりどこかへ引っ張って行く時に握られるその荒れた手の感触だけ。その痛さと言ったら、憎しみがこもっているとしか思えないほどに強かった。

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