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きょうだい児8歳の夏(預けられた2つの家での孤独)その7

 手術当日の私は、と言えば、もしかして晴信が死んでしまうかも、という思いが何度も頭をよぎるけれど、なるべくそのことについて考えることを避けていた。
 伯父が家にいたけれど、日曜日ではなかったので、休暇を取ったのかもしれない。病院に行く予定はなかったけれど、急遽輸血要員が足りなくなったという母からの電話を受け、あわてて身支度をして出かけて行った。その様子は今も記憶に残っている。
 伯母も逐一報告してくれたわけではなく、夕方頃になって、
「晴ちゃんの手術、無事終わったわよ」
 とようやく知らせてくれた。
 これで、やっと安心できた。私が取り乱したり、不安そうなそぶりを見せなかったので、まだ手術がどういうことであるか理解していない、とみなされていたのかもしれない。
 だから、途中経過など細かいことを説明するのは控えていた可能性もある。
 本当は、心配で心配でたまらなかったのに。
 その日、父と母は5歳の弟が手術台に運ばれて行くのを見て、不憫でしかたなかった、と言う。手術が成功するかどうか不安で、2人して病院の屋上から飛び降りてしまおうかと思ったらしい。これは「指先から憐れみ光線を出す人たち」でも書いたけれど、こんなこと私の前で言うな。
 どうして?
 残される私のことを考えたことがあったのか? きょうだい児としてガマンの連続の日々の先に待っていたのが、そんな未来だとしたら、一体私は寿命尽きる日まで、どのように精神を保って命を繋いでいけば良いのだろう。
 これは、親戚の集まりの席で母がいかに自分が辛かったかを訴えるためのエピソード。
 それを私に聞かせる無神経さが、もう・・・・。
 本当に理解できない。
 もしこの文章を読んで、
「お母さんだって大変だったのよ」
 という感想を持つ人がいたら。
 お願いだから、思うだけにして口にするのは控えていただきたい。
 毒親の子供は、小さなキャパシティで精一杯耐えしのんでいる。だ~れもいたわったり味方になったりしてはくれない。あの夏預かってくれた人たちだって、本当は気を使って他人の子の面倒など見たくなかったはず。それは言われなくても、肌で感じた。だからこそ、なるべく気配を消して過ごしていたのだ。
 さらに私の母は外面良くふるまったり、被害者ぶって自分に同情を集めたりするから、いつも親に注目が集まり、こんな良い親なのだから、と実情を誰も信じてくれなくなる。
 それでも、必死に生きているのに、これ以上母の方を擁護する言葉を浴びせられたら、その場でくず折れてしまうかもしれない。それほどに過酷な日々を強いられる。親の方の味方を考えなしにする行為は、傷口に塩を塗りこみ、ごしごしこすっているのを同じ。
 ともあれ、きょうだい児としての長い長い夏は終わりを告げた。子供として、無邪気に過ごすことのできなかった失われた日々は、もうどうやっても手に入らない。けれども、思い返せば愛に満ちた日々など一日もなかったことに、気づく。
 そんな時は、苦笑するしかない。

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