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たいらげた光景に心のゆとりと今を自覚する

ある喫茶店にて。いつものようにコーヒーと軽食をたいらげてひと息ついていると、目の前の光景に惹きつけられている自分に気づく。漠然と「なんかいいな」と思ったのだ。


Instagramを筆頭に写真をシェアする文化が根づいた。飲食店に行くと、運ばれてきた料理に手をつける前に、スマホやカメラを構える仕草をみかける。例によってわたしもそのひとりだ。

店先で食べ物や飲み物を写真におさめる理由はひとそれぞれ。SNSやブログなどインターネット上にアップするためという人もいれば、日常の切りぬきや思い出として撮っておきたいという人もいるだろう。


数年前に訪れたカフェで忘れられないできごとがある。そのカフェは看板メニューのカレー目当てにやってくる人で列をなす人気店だ。

夏の暑い日に並んでようやく入店。お冷を飲みながらひと息つくと同時に、席をひとつ空けて隣に座っていた、学生らしき女性2人組のもとにカレーが運ばれた。スパイスの香りに吸いよせられるように横を向くと、店員さんが去るや否や片方の女性がすかさずスマホを構えて写真を撮りはじめる。ヒートアップしたのか最終的には立ちあがり、あーでもないこーでもないと真上のアングルから一生懸命撮っていた。

カレーをどれだけフォトジェニックに撮れるか、夢中になっている彼女の隣には、自身のカレーを人質にとられた友人が苦笑いで、ただ時がすぎるのを待っている。対照的な姿がシュールだった。


目の前に運ばれたばかりで手つかずの状態、いわば整然としたうつくしい状態を写真におさめたいという衝動は自然なのかもしれない。写真に撮るという行動を通して、熱を帯びたわくわくする感覚も一緒に記録しているように思う。

とはいえ、料理は食べてこそ正義だ。写真を撮ることに夢中になりすぎては、お店に対して失礼であり、場の雰囲気を壊しかねない。

カフェで遭遇した夢中になってカレーを撮り続ける女性をまのあたりにしてから、飲食店でスマホを構えるときに一段とふるまいに気をつけるようになった。あらかじめ頭のなかで撮り方をイメージしておき、料理が運ばれたらサッと撮ってしまう。多少の物足りなさは、目に映りこむくらいじっと見つめることで昇華させる。

じっくり味わい、コーヒーの最後のひと口を飲みほす。力がぬけたようにソファへ背中をあずけると、数分前は自然とピントがあうように目を奪われてたものが、今では空間の一部のように溶けこんでいることに気づいた。視野が広がったような錯覚に陥るのだ。

夢中になって写真を撮りたい衝動に駆られる初対面のときとは対照的に、すっかり飲みほされ、たいらげられた落ち着きのある姿。ただの食後のひとコマだが、胃袋だけではなく心も満ちた感覚が写されているのだ。

以前まで、食後にテーブルの上を眺めるなんてことはしなかった。すっかり胃袋に入ったあとは、いつ・どのタイミングで席を立とうか、次の目的地までどれくらいかるのかなど、先のことが頭のなかを占めていたはずだ。

カフェや喫茶店をめぐるようになったから、せっかちなわたしでも心に少しの余裕ができた気がする。一滴も入っていないコーヒーカップや、味わいつくされたあとのプレートの様子に意識を向けるようになり、ひと呼吸立ち止まることをおぼえたのだ。

スマホのアルバムに食後の写真が残っていると、このコーヒー時間は満たされたんだなとわかる。生き急がない余裕を感じられる。カフェや喫茶店での心安らいだひとときを思いだせる。

おいしいコーヒーと心地よさを求めて、カフェや喫茶店をめぐるのが好きだ。限られた休日と探求心から、同じお店にもう一度立ち寄ることは多くない。もう訪れないかもしれない、お店自体がなくなってしまうかもしれない、をいつもはらんでいる。

衝動にかられてはじまりを記録するなら、余韻にひたりながらおわりも記録しておきたい。束の間の豊かさをとどめておきたいという感覚は、今を生きることなんだと思った。

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