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書くことに慣れていきたい。

書くことに慣れていきたい。

文章を書きたいという思いとは裏腹に、言葉は微塵も出てこない。

どうやら私は書くことが苦手なようだ。

書いては消してを繰り返し、投稿せぬまま積もった下書きの数々を横目に、今日もこうして書き始める。

どうして私は書きたいのだろうか。誰に何を届けたいのだろうか。
わからぬまま書き続けることに違和感を覚えつつも、書かねば見えてはこないというジレンマを抱え、唸りながら文字を打つ。

今日はどれだけ駄文であったとしても投稿するつもりでいる。

理由は、そろそろ私が次に進みたがっている気がするから。

いい加減、無理矢理にでも書き上げるという訓練をするべきなのだ、そうしなければ成長しないではないか。

と、心で誰かが呟いている。

そんな気がしている。

書くためには、書く目的が必要だ。

誰に向けて、何を伝えたいのか。
それがなければ、ただ中空を漂い霧散していく文字の連なりにほかならない。

言葉はコミュニケーション、対話の手段だ。

だから必ず相手が必要になる。

私は誰に向けて書きたいのだろうか。

その答えを、今日の文筆の中で見つけだしたい。



先日、1週間ほど実家に帰省して旧友たちと顔を合わせてきた。

長い学生生活を終え、社会に出てもう3年が経とうとしている。

時の流れは本当に早い。

学生時代しか知らない私にとって、皆はもう半分知らない人になっていた。

ただしばらく話をしていると、次第に懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。
環境が変わっても、人の中心は変わらないのだなと思った。

会話の中で、皆共通して社会の生きづらさについて話をしていたのが印象的だった。

類は友を呼ぶということだろうか。順風満帆に人生を謳歌している人は少なく、皆何かしら抱えて生きている様子だった。

生きていくことはとても難しい。

苦しいことほど何時までも尾を引き、繰り返し顔を出す。

そうした人生の中で、話の合う友人たちと出会えたことはとても幸運なことだと思う。

この関係を今後も大切にしていきたい。




私の友人たちは、心に傷を負っている人が多い。

優しさ故か、はたまた社会が厳しすぎるのか。
真相はわからないが、とにかく荒波にのまれて弱っている人が大半を占めている。

私はそんな友人たちをどうにかして救いたいと考えている。

具体的な手段が浮かんでいる訳でもないのだが、このまま放っておくと、ただでさえ少ない友人が更に減ってしまいそうで、心配なのだ。

だから、可能であれば、そんな弱った友人たちの助けとなる様なことが出来ればいいなと常々考えているのだが、例えば、このnoteを書くことで、一助になったりはしないだろうか。なんて思ったりもしている。

人を救うなんて大層なことが自身に出来るとは思わないが、もしほんの少しでも気晴らしになる様なことが出来れば、この文筆という行為も、意味や価値のある行為になるのではないだろうか。

そうした期待を込めて、しばらくはnoteを書いていこうかなと思い至った。


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