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学校の先生になりたい理由

先日、友達と話していた時、友達はこんなことを言葉にしていました。

なんか先生になりたいんだよね。

この「なんか」にどこか気になることがありました。

確かに考えてみれば、先生と言っても教えるだけなら、「塾の先生」「保育士」、僕なら「ピアノの先生」も先生には変わりないのです。

それでも、どうして僕やその友達が「学校の先生」にこだわるのか。
それを考えてみたいと思います。

先生になろうと思ったきっかけ

僕には、これと言って大きなきっかけはありません。
むしろ、昔から夢がなく、漠然と音楽やりたいなあと思っていただけです。

ただ、高校生になって大学は何を勉強しようか考えていた時、当時、教わっていたピアノの先生から「学校の先生に向いてるよ」と言われました。

それ以来、少し学校の先生になることを意識して学校生活を送りました。

そうすると驚くことに「こういう時はこんな風に子どもに接するといいんじゃない?」とか「もっと違う言い方のほうが伝わりやすいと思うなあ。」など、授業中や普段の生活での先生方の行動に、自分の意見を持てるようになりました。

思い返してみれば、中学生の時から同じようなことを考えることが多く、無意識のうちに考えるようになっていたのだと思います。

先日書いた「理想の教師像」でのエピソードもひとつのきっかけだったかもしれません。

学校の先生へのこだわり

では、どうして「学校の先生」にこだわるのか。
いくら尊敬しているピアノの先生に言われても、決めるのは自分です。

僕が「学校の先生」にこだわる理由、それは、

子どもに影響を与えられる身近な存在だから。

もちろん、他の場所でも影響を与えることはできます。
先生が「頑張れ!」と言うより、嵐の二宮くんに「頑張れ!」と言われた方が僕は頑張れるでしょうし、影響力があるでしょう。

それでも、多くの子どもたちが通う「学校」という場所で、必ず近くにいる「先生」という存在であるからこそ、できることもあると思うのです。

例えば、先日の「理想の教師像」でもお話したように、不安や悩みを抱えた子どもに寄り添って話を聞くことができるのは、「学校の先生」の特権ではないでしょうか。

そこでうんうんと頷きながら話を聞くだけも良し、求められたならアドバイスや協力してあげるも良しだと思います。

そんな何気ない瞬間こそ、「学校の先生」である意味・価値を見いだせると思います。

これは中学生の時、理科の先生が話してくれたことです。

学校は英語や数学の教科を学ぶだけなら必要ない、塾でいい。友達と協力すること、誰かに相談すること、礼儀を知ること、そういった普段の生活からじゃないと学べないことを学びに来る場所なんだ。

なるほど、それはごもっともだな。当時の僕も今の僕も納得しました。

もちろん、数学や英語を疎かにしていいということではありません。それらを学ぶことだって、生きていく中では必要です。

授業でも、普段の生活でも、子どもたちの身近にいる存在だからこそ、子どもたちに寄り添って成長する手助けできると思います。



友達と話していた時に見つけた「なんか」は、おそらく僕の中では、今お話したようなこだわりがあるからだと思います。

このこだわりを持ち続けて、これからも「学校の先生」になれるように学んでいきたいと思います。


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