人間存在の、人生の本質が、本来、どうしようもなく理不尽なものなのです。
私は他人で構成されている、と思う。
今すぐにでも抱きしめたい大切な人からどこの誰とも知らない人まで、さまざまな人間の考えに寄生している。
そんな生き方を惨めだと思ったりお前にエゴはあるのかと自問したりするが、人は誰しも他人と切り離すことは出来ず、構成する他人を選ぶ無意識こそエゴなのではないかと毎度毎度当然の結論に帰着して安心する。
アホなんか。
私には寄生する考えをなんらかの形で残しておくことがエゴの変容を把握する上で役に立つのではと、ことあるごとにiPhoneにメモする癖がある。
ここ数カ月は人との断絶著しく、自分の一癖や二癖をひけらかすことで構ってもらえるのではとiPhoneのメモを一部公開することにしてこのnoteを書いている。
不安は妄想。
これはどこかの誰かが呟いていた言葉。
不安は妄想である。
見えない、聴こえない、触れられない、分からないことが想像を掻き立てる。
不安、は単に負の方向に振れた想像・妄想である。
分かりさえすればすべては解決する。落胆という感情に変化するかもしれないが少なくとも不安は解消されるだろう。
不安は妄想、不安は妄想、不安は妄想。
そんなこと頭で理解しても妄想はとどまることを知らない。
菩薩ってなんか遠い目してるじゃん、あれたぶん誰かの苦しい話を聞きながら別のこと考えてるよ。
これは幡野広志さんの言葉。
当時全文読めた記事の一部から抜粋。
一般の方の悩みに答える、というよくあるものだがこの記事は悩みも回答もすごかった。
人と真剣に(あえて真剣と書く)向き合おうとすると相手の感情の渦に巻き込まれてしまいがちである。
律したうえで他人と向き合う自分になれるという前提に立ちたい。
どうなんだろう、菩薩としての向き合い方を真摯ととるか不真面目ととるか、ここの考え方は分かれそうだ。
少し寂しい気もしなくもないが、薄いオーブで自身を纏って人と接する方が私は誠実だと思う。
一方私はむき出しの自分で人にぶつかっていくから誰も救えない。
学べよ。
誰かの心を支えるというのは、自分の心を削ることでもあるんです、でも削ったぶんがそのまま相手の心に上乗せされるわけでもないので、共倒れになることもあるんです。共倒れしないいい方法は遠い目をして話を本気で聞かないということです。
人間存在の、人生の本質が、本来、どうしようもなく理不尽なものなのです。
これは母校の恩師が私の代ではない卒業文集に寄稿していた一文である。
この文章を目にしたのは多分高校1,2年生の時で、当時の私は人生についてこれっぽっちも分からないしこれっぽちも考えていなかった(今となれば多分そう)のだが訳もわからず泣いてしまったことを覚えている。
年を経るごとにこの言葉はずっしりと体験に即した信憑性を帯びてゆく。
人生の理不尽さや人間の自己矛盾は生きていく上で自分を悩ませる要素に違いないのだが、人生や人間のそういうところこそ不器用で愛すべき部分だと思っている。(幸せに生きてきたおかげか。)
努力ではどうにもならない運命に翻弄され、其れでも泣きながら、自分の足で、そのうねりの流れの中に立ち続ける人こそが、真の意味での勝者なのだから。
感情の振れ幅が小さいほど他人に迷惑をかけないよ。
これはつい最近友人に言われた言葉である。
この一年強く生きねばという信念をもって(強さをはき違えて?)過ごして来たら自分の感情に鈍感になってしまった。
もっと繊細な人間であったつもりなのに。
それに気付いたときはなんだか軽く絶望して、思わずその友人に相談して帰ってきた答えがこの言葉である。
たしかに。
では感情の振れ幅が今の1億倍だった過去の自分とは...。
少子高齢化社会なんだから相対的にみれば子供かもよ。
この言葉もさっきと同じ友人の言葉である。
しょんないことばかりする私が「22歳ってもう大人だよね~。」と泣き言をこぼした時に言ってくれた。
目からうろこである。
大人子供の基準を公的に決めているなら今こそ決め直すべきだろう!!!
ただこの言葉に縋っていつまでも甘えられないなという自戒。
友人はこの言葉に「大人になっていく人は先に行くだろうね。」と付け足した。辛辣だがその通り。
まだまだ勢いに任せた行動はやめられない。
いつまでも刹那的に生きてもいられないと頭ではわかっていても体の内核から突き上げる衝動をどう抑えたらよいのだろう。
破滅の星のもとに生まれた者として生を全うしよう。
はー、こんなの呪いじゃんね。
呪いの弱点はそんなもの存在しないということ。
はい。
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