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資本主義、個人主義、社会契約 #1

◆自由の代償として私たちが背負わされているもの

うえむら 最終章、第7章です。P240で「自然科学的なテクノロジーや社会科学的な制度」に加えて「思想上の正しさ」という政治的な面が区別されているのは章の見通しとして分かりやすかったですね。

しろくま P244には「しかしミルが展望していたのは、多様な人間と多様な議論が存在しても構わない社会で、マジョリティの思想やライフスタイルがマイノリティに押し付けられる社会や、ブルジョワに端を発した思想やライフスタイルが全ての個人を捕らえて離さない社会ではなかったはずである。」と書いてあります。

インターネットやSNSの発達によって、昭和や平成よりは、マイノリティ同士でコミュニティを形成したり、誰かが発信した少数派のライフスタイルを真似したり、コミュニケーションをとりやすくはなっている気はします。つまりマジョリティがマイノリティに押し付けるという流れが加速するというよりは、マイノリティが残り続ける流れもあるのかなと思います。ただし、主体的な行動と情報収集能力は必要だと思いますので、マジョリティ側に押される人もいるとは思います。

もう一つ、いつも気になっているのが、テレビでインタビューに出てくる家って、けっこう豪華じゃないですか。インタビューに応じて、家の中まで入れてくれる家は、広くて綺麗。あれがマジョリティだと錯覚してしまうことがあって、「みんな良い家住んでいるな」という気持ちになるけれど、あのへんの人たちって年収別に区分するとしたら、別にマジョリティではない。だからメディアに出ている年収が多い人たちのことを、「制度を作ってきたひとたち」という意味で「マジョリティ」と定義するべきなのか、それは単に「ブルジョワ」に過ぎないのであって、「マジョリティ」ではないのではないか、という著者の定義が曖昧だと思います。

うえむら 鋭い指摘ですね。いくつか解釈があると思います。まずマジョリティとは人数のマジョリティではなく、お金のマジョリティだという捉え方ですね。格差が拡大して、お金は偏在している。「1%が99%を所有し、99%が1%を所有する」というところまで極端ではないにしても、偏りが存在している。現代の民主主義は人口の多寡ではなく、資本の多寡によって発言力の強弱が付きますから、お金を持つ人が制度を作り、思想やライフスタイルを押し付けるというプロセスは「マジョリティによる押し付け」と描写できるでしょう。

次に、メディアが一役買って、「マジョリティ」という空想上の概念が生じているという解釈もあると思います。例えば、直観的に自分が社会の中でどの位置にいるのかを正しく認識できている人が少なかったりする。今の政権は「再分配」を標榜していますが、「再分配」と言われたときに、「自分は貧困層だから富裕層からトリクルダウンを受けられる」と認識するか、「自分は富裕層だから貧困層にお金をむしりとられる」と認識するかでいうと、だいたいの勤労者であれば後者なのですが、認識の上では前者である人が多い気がします。

今の例は「富裕層」と「貧困層」が逆ですが、自分が本当は「マジョリティ」ではないにもかかわらず、マクロ政策としては「マジョリティ」側に立ってマイノリティを抑圧することを選択し、結果的に自分の首を絞める、ということは起こりえるのではないかと思います。以上のように、一口に「マジョリティ」といっても、それは実相としてのマジョリティと、フィクションとしてのマジョリティと、資本のマジョリティとが混在しているのだと思います。

しろくま フィクションとしてのマジョリティというのはどういうことでしょうか。

うえむら 自分の社会階層がどこにあるかを正しく認識せずに、自分が損をする政策を選び取ってしまうマイノリティのことですね。

しろくま 「フィクションとしてのマジョリティ」と聞くと、組織内でのマジョリティという意味かと思いました。

うえむら そういうのもあるね。部分社会におけるマジョリティに過ぎないのに、社会全体におけるマジョリティであると錯覚してしまうパターン

こにし あとは認知上のバイアスの話ですかね。自分が平均よりも運転が上手いと思っている人の話は50%よりも多い。平均だからぴったり50%になるはずなのですが。土地柄もあって、アメリカでは「上手い」と思っている人が多い。

うえむら 名古屋とかもそうかな。

こにし 正しく自分の位置を認識するのは、定量化されないケースでは特に難しいですね。しかも、年収はまだしも可視化されやすいですが、それですら錯覚を生んでしまう。今の日本の正社員の平均年収は500万円に届かないくらいだし、東京に限定しても650万円弱くらいで、平均年齢が45歳くらいだったと思いますが、びっくりするくらい低いですよね。そういうデータを知るまで、ある程度年収が高い人でも、準拠集団が会社の同僚だったりするので、社会全体の認識とはギャップが生じてしまうことはありますよね。それは国の政策になると日本国全体が準拠集団になるので、自分の所属している集団との差で「自分は平均よりお金持っていないね」と思っていても、国全体で見ると普通に「富裕層」だったということはありえる。

うえむら 日本の税や社会保険料は相対的に安いのだけれど、勤労者である我々は全然そんなふうに感じない。全然課税されていない層が多いので、勤労者にとっては月々の給料からとても大きな額を天引きされていて、税や社会保障の負担は大きいように感じているけれど、国際的に比較すると、そんなに高くない。

マジョリティがマイノリティに押し付けているという言説は、確かにメディアによって作られたマジョリティが、マイノリティを抑圧することによって、マイノリティがどんどん自分のことをマジョリティだと錯覚するように誘導させられて、そのプロセスを経過することで自分を「マジョリティ」と認識する層が蔓延っていくことになる。

こにし マス向けにビジネスしようと思うと、それは良いやり方だと思います。自分たちが多数派であるというポジショニングをする。ハゲ治療もそうだと思います。あたかも「ハゲているから恥ずかしい」という雰囲気をいかに作り上げ、人々をどのように恐怖に陥れる仕組みを作るかを考えるのが典型的な商売のやり方になる。多数派工作というか。

うえむら 少数派工作かな。「多数派に入れ」と促していく。

しろくま お金をかけて消費することで、多数派に移るよう誘導する。

こにし 先程の「tier1によるtier4からの搾取」に近いですが、別に相手のことを思っているわけではなくて、実際にハゲていようがハゲていまいがどうでもいい。しかし商売上「ハゲていない方がカッコいいですよ」というストーリーを作り上げている。

うえむら マイノリティ同士でコミュニティを形成するオルタナティブが現象として観測されるにしても、それは圧倒的なマスメディアのマジョリティ工作には抗しがたい、ということかな、まとめると。

こにし そこに活路を見いだせるケースはそれほど多くないのではないか。

しろくま よほど自分を持っていたり、情報収集能力に長けていたりといった限定的な人々しか、マイノリティのままではいられないのだろうと思います。

◆ずっと窮屈になった「他人に迷惑を掛けない幸福追求」(前半)

うえむら P246に「危害原理からはみ出さないように努めざるを得ない」、「他人に危害や迷惑をかける可能性が高まる」とあるのは、多様性社会の中で、誰もを納得させることが難しくなっている状況を想起して納得しました。有名な「ロバの絵」の例えがありますよね。老夫婦とロバの絵を見たことないですか。

しろくま いま見つけました。二人の老夫婦とロバ。

うえむら じいちゃんだけ乗っていると、「家父長制」みたいな批判を受ける。

しろくま ばあちゃんだけ乗っていると、「けしからん女だ」になる。

うえむら そして両方乗っていると「ロバが可哀想」になって。

しろくま 両方が乗っていないと「ロバの正しい使い方を知らないバカだ」となる。

うえむら それは本当は「危害」ではないはずなのだけれど、誰かの「お気持ち」を損ねることが実態として「危害」だと感じられており、そして全ての人々の「お気持ち」に配慮しなければ行為できないような社会になってしまっている。つまり、「迷惑」というものが多様化しているし、閾値もまた低下している、というダブルパンチを食らって、自由が縮減していく

こにし ミルは一九世紀の人で、先見の明という意味では慧眼だったと思いますが、「他人に危害や迷惑をかけない限り」の条件が、現代では圧倒的に厳しくなっている。他人に危害や迷惑をかけないということが、客観的に判断できるものではなくなってきている。

例えば○○ハラスメントの成立のように、「他人に迷惑をかけない限り」=「他人が迷惑だと思わない限り」であって、「相手がどう思うか」と、判断を完全に他人に依存している状態になる。そうすると、行動としてはより保守的に振る舞わないといけなくなる。独り善がりに「大丈夫でしょ」ではなくて、「相手にこう思われていないだろうか」と行動を抑制しないといけなくなるし、自分の感覚が信用できなくなる

うえむら それで自分に自信が持てなくなっていくという悪い効果もあるでしょうね。

こにし そう考えると、P266では出会いやオフィスラブがなくなっている話もでてきましたが。

うえむら そうだ、そのくだりと関連するよね。

こにし 当てはまっていますよね。判断基準は自分が気持ちよいかではなくて、周りが迷惑に思うかどうかになっている。

うえむら 最近は何か他人を誘ってやりたいと思っても、「いや、誘うことは迷惑になってしまう」という規範意識になってしまいますよね。こういう読書会にしても、それなりのリソースを参加者には割いて貰っているので、誘うにあたっても尻込みする部分はある。だからこそ、快諾を得られると逆にすごく嬉しいのだけれど、いずれにしても「関わる」ということに対するハードルは高まっていますよね。

しろくま 探る感じになりますよね。どうかな、みたいな。

うえむら 昼メシに誘うことすらそうなっている。

こにし 曲がりなりにも現代社会を30年くらい生きていると、ロバの絵もそうですが、他人の規範意識を学習してしまうと、より窮屈になってしまうのですよね。自分の中に他人の規範意識を内面化してしまう。「こういうことをしたら、相手はこう思うだろうな」という想像力が広がっていく。

うえむら そういうカタログを充実させればさせるほど、息苦しくなる。逆にカタログがスカスカな人はのびのび生きやすそうという。

こにし その代わり地雷を踏み抜く可能性も高いのですが。どっちがいいのでしょう。

うえむら そのようにして主体側に対して抑圧が働くという側面と、ちょうど『ジョーカー』がホットなので映画の話をしますが、アーサーは思いっきり路地裏で殴られても、誰も自分のことを気にかけてくれなかったことに傷つきます。そのようにして、関わりを持つ、持たないの選択肢の中で「持ちたいのに持てない」という主体として抑圧を感じる人と、「持って欲しいのに持って貰えない」という客体として寂しさを感じる人の、両方があると思います。そういうミスマッチが生じてしまう。

だとしたらマッチングさせればいいのであって、「私を関わって欲しいですシグナル」を作ろうか、また。この話前もしたな。「私の子どもには介入してくれて良いですマーク」「私の子どもには話し掛けるなマーク」みたいな。

こにし そのときに、そういう表現が出来る人は幸せなタイプで、それをすることにすら羞恥の感情が芽生えるなど、そういう行動をしないように仕向けるような感情を得る人も多い。

しろくま 「理解されなくてもいいや」と思ってしまう。

こにし そこが感情として矛盾していて、生きづらいと思います。「他人と関わりたいのに関われない」については、趣味に関して知り合いを作りたい、例えば音楽が好きで夏フェスに行きました、というときに、フェスに来ている人は一定程度音楽が好きでしょうから、手当たり次第に話し掛けまくれば友だちの一人や二人はできるのでしょうけれど、そうする人はほとんどいない。それをしてしまうと「いきなり訳の分からんヤツに話し掛けられたら迷惑じゃないか」と思ってしまうからで。

うえむら フェスは場の空気もあるけどな、結構。

こにし 自分で感情を盛り上げておいて、自分で鎮火するみたいな。

うえむら セルフフェスをしないと話し掛けられない。

こにし 「本当はこうしたいけれど、これをやったら周りの人は迷惑じゃないかな」という抑圧された感情を持っている人は多いと思います。それは現代的だとまで言えるのかわかりませんが。

うえむら それは単なる人見知りなのかもしれない。昔ながらの。さっき言ったような「シグナル」みたいなものを読み取る能力に長けている人とそうでない人はいますよね。「いまは押して良いな」みたいな、恋愛駆け引きというか、「聞かれたら、恥ずかしいから、イヤだって言っちゃうけど、聞かずにやってほしい///」みたいなハイコンテクストが生じている。そういう世界観では、マーキングすることで「野暮なマーキングとかするなよ」みたいな抑圧が働く可能性もあるので、マーキングという行為自体が誰かに「迷惑」をかけているのかもしれない。

こにし 差別の対象にもなったりするでしょうし。

うえむら 基本的にヘンなヤツを呼び込むリスクを考えると、誰もマーキングはしないのだろうな。「話し掛けてくれていい」とは言いながらも、誰でもオープンなフリーハグというよりは、自分に快を与える人にだけ出会いたいというのはありますものね。

こにし そりゃそうですね。

うえむら でも学生時代は割とセレンディピティを楽しんでいましたよね。いつから私たちはセレンディピティを楽しめなくなったのでしょう。それは加齢によるものか、時代によるものか、分からないのですが。逆に他人と関わることを強制されたときに、他人に影響を受けて自分が変わっていくことを楽しむ場合もあるし、わかり合えない他人との間で、夜更けに至るまで学内のベンチで腹を割って語り合えば、ぼくたちはわかり合えた、みたいな、そういう文化はなくなりましたよね。

こにし それは京都が特殊だったのかなとは思いますけれどね。東京ではあんまりそんな話聞かないですよ。

うえむら あまねく全ての大学生がそういう体験をしている訳ではないのか。流石に週3で12時間会議する濃密空間は珍しいだろうけれど、宅飲みして夜まで語り合うくらいはみんなしていそうだけれど。

こにし 東京の人って実家から大学に通っている人が多いので、意外とそういう体験をしていないらしいのですよ。

うえむら 学生時代からあんまり関わり合わない、語り合わないというカルチャーがあるのか、東京の場合は。

こにし もちろんサークル活動やクラスメイトの色々な人と交流する機会はあると思うのですが、夜通し話し込むとかは一定の条件が必要とされて、贅沢な体験になってしまっている。拘束されるという意味では「贅沢」ではないのかもしれないですが。やっぱり実家暮らしの人だとそういう体験は難しいと思いますし、難しい人の割合が東京では高いと思います。

うえむら 私は実家暮らしだったけれど思いっきり終電を落としまくっていたけどね(笑)

こにし 流石です。

うえむら そういうセレンディピティ礼賛文化ではなくて、むしろ確立した自己の保存に価値を置いている。なんでそんなに自分に自信を持てるのかなと思うけどね。それよりも多少コストをかけたとしても影響を受けて変わっていく方が楽しいと思うけれど。それは自分の性格の話なのか。例えばももクロオタの後輩からライブに誘われて、別に全然興味ないけど観に行くみたいな。そういう体験はあると思うけれど。

しろくま あると思います。

うえむら それが成立しづらくなっているということなのかな。お互いが趣味で繋がる様になってしまうと。だからももクロのライブに誘うとしたら、モノノフのプールから誘うべきであると。全然興味のない友人は誘わない。

しろくま 誘う側も尻込みして、気を遣ってしまうことはあるでしょうね。

こにし 行為とお節介の区別がつかなくなりますよね。それで属性が分からなくなると安全側に寄せますよね。社会人仕草かもしれませんが、敢えて危険方向に振っていく人はクレイジーボーイですね。

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