【映画鑑賞感想】劇場版 名探偵コナン 100万ドルの五稜郭(みちしるべ)
平和、伊織の答え合わせ
まず振り返っておきたいのは、我々が昨年作品の次回予告(つまり今作予告)において、平和と怪盗キッドがフィーチャーされる要因を以下のように分析していたことです。
上記の分析をおさらいしつつ答え合わせをすると、まず「平和のカップリング安定」については、福城聖(CV:松岡禎丞)という当て馬として手頃なゲストキャラが配置されることで、平次の焦燥が加速し告白に至る展開が企図されるようにも見えましたが、一方で紅葉+伊織はヘリにより北海道各地を駆け巡り(という程でもなく、実際には主邑・札幌と最北端・宗谷岬だけ)ながら「告白スポット」を探すシーンが端切れに挿入されるのみで、もう少しメインシナリオに介入してくるかと思ったら、むしろ「メインシナリオになるべく噛まないように」運用されていたのが意外でした。
そして、クライマックスの平次による告白は、今作の事件および当て馬の境遇になぞらえた導入を入れながら、100万ドルのシチュエーションも後押ししてなかなか印象的なものとなったように感じましたが、古典的な難聴オチの告白キャンセルに堕していたのは正直残念でした。
こうまでして風呂敷の回収を拒む理由として、やはり平和の安定化については本編でやりたいのだろうか、という推測を余儀なくされるところです。灰原哀の恋の終わりとその供養は『黒鉄の魚影』で完了されたことと比較しても、蘭ねーちゃんをギャグキャラとして立ち回らせてまで、エンタメシーンでは関西メンツはラブコメを求められるのかと思うと、東京を主体に定位した消費視点が先鋭化しているなぁとも暗澹とします。
伊織については、風見が警察学校の同期という設定が生かされるはずなので、やはりあむぴ不在のシナリオでは活躍の場が設けられなかったのかもしれません。そういえば、今作の最大の見所として、福城聖と平次とのオートパイロットセスナ機上における”和葉を奪い合うわけではない”チャンバラ(遥か下界にライトニング阿笠バルーンを添えて)がありましたが、『ゼロの執行人』や『ハロウィンの花嫁』におけるあむぴは拳銃を駆使しながらも真っ逆さまに墜落するヘリに乗ったまま死亡しないという人間卒業ぶりを披露していたのに対し、平次(とノビた聖)は流石に函館山に激突したセスナに乗り込んだままではなく、展望台直行のパラシュートを用いていました。
「令和のクローズドサークル」への応答
さて、劇場版コナンの監督は常に「アクションスペクタクルの中にクローズドサークルを入れろ」という矛盾したシナリオを要求されて毎年苦労されているのをサラリーマンの一人として同情しつつ、消費者としてはその各々の応答を楽しみにしているわけですが、本作のクローズドサークルはいかがだったでしょうか?
正直、アクションスペクタクルを減速させかねない危うさを孕んでいたようにも思えます。具体的には、久垣弁護士の死ごときは、カドクラの手の者による暗殺として済ませてなんの不自然もないからです。函館山の頂上に向かっていくスリリングな展開の中で、十文字の太刀筋の推理なんかどうでもええっちゅうねん。
グローバルでオープンなフィールドにおけるハードボイルドな展開は、一つ一つの死に拘らない態度こそが魅力であるのに対し、伝統的なクローズドサークルは閉鎖的な空間における一つ一つの死にとことんこだわることで成り立っており、非常に食い合わせが悪い。
だからこそ、この点をハイセキュリティな国際施設(=クローズドサークル)を巡るテロ組織の陰謀とハイスキルなエージェント(ピンガ)によるシームレスな実行行為の連続として鮮やかにクリアした『黒鉄の魚影』は評価が高く、また開き直ってクローズドサークルを排除した『ハロウィンの花嫁』のような作品こそが今後のトレンドとなり得る水路付けを行った(テロという犯罪に挑むコナンたち探偵という構図)ようにも感じられました。(”もうそれでええやん”)
これに対し、本作のクローズドサークルが供給したのは「陣営の形成」という効果でした。すなわち、第二次世界大戦の戦況をひっくり返すほどの「兵器」という「お宝」を巡り、グローバルな武器商人としてのカドクラや、凋落する財閥を再興しようとする斧江拓三といったライバル陣営を導入してキッドとの争奪戦を演出する中で、当初は隠された陣営として、「そうではなく、「お宝」の発見を妨害する陣営」の存在を謎として配置するために、クローズドサークルが必要だったと考えられるのです。
全陣営が同じゴール(お宝の獲得)を目指すのではなく、別の目的(お宝の隠蔽や破壊)を帯びているという構図は、例えば『Fate/Zero』のプレ最終話で衛宮切嗣がセイバーに命じて聖杯を破壊しようとしたシーンの意外性などを意識し、踏襲しているように感じました。
蛇足ですが、そう考えると、福城聖が原チャリに乗っていたのは、単にオフロードバイクを乗りこなす平次と対比されたカワイイキャラで女性人気を獲得するためではなく、原チャリという「無害性のディスプレイ」によって、そうした「陣営」の意外性にレバレッジを効かせる演出だったとも解釈できます。なんせ覚醒してからはマッチョイズムも露わにセスナを操るわけですから。うぜぇ、最初からリッターバイク乗っとけや。
孤立した黒羽盗一
本作のクリフハンガーは、黒羽盗一の工藤優作との兄弟関係及び、そもそも黒羽盗一が生存していたという事実の開示により、盗一の物語参戦が宣言されたことでした。「赤井が生きていたのは衝撃だが、盗一が生きていてもさほど・・・」という意見もありますが、これによって「盗一が黒幕」説も考察勢の中で存在感を高めてくることと思われます。
実際、すでに「寝た子を起こすな」にはダブルミーニングがあったのではないか? とか、盗一のメールアドレスを読み込めばボスのメールアドレスと繋がるのではないかといった眼差しも萌芽しています。
それはそれで良いのですが、本項及び次項を割いて、二点指摘しておきたいと考えます。それは「盗一をストーリーに噛ませたことによる解釈の攪乱」と「怪盗キッドの布置の困難性」についてです。
まず一点目については、盗一は「川添善久」という昼行灯めいた雰囲気を持つ北海道警の刑事に化けていたことが終盤に明らかに(実際に変装をペリッとはしないので示唆までですが)されます。すなわち盗一は工藤優作のように遥か離れた地でも、紅葉+伊織のようなニアミスの位置でもなく、「いま、ここに」いるということになります。
本作の「お宝」である暗号機の保管された函館山内部に掘られた壕には、盗一が過去に残していた「寝た子を起こすな!」と記したカードが残されており、「我々が紆余曲折を経てようやくたどり着いた真実に、盗一は既に独力で到達していた」という超人性を演出している訳ですが、そうした超人性を演出しているにもかかわらず、「では、なぜ盗一はいま、ここにいるのか」に対する説明が明らかに不充分です。
息子の詮索を掣肘するため? もしくは斧江財閥の2代目である忠之と何らかの因縁や生前の依頼があった? 別に何でも良いのですが、何らの説明がないことによって、「このカード、本当に過去に置かれたものなの? 今回、みんなが着く直前に置いただけじゃないの?」という解釈可能性が生じてしまうのは非常によろしくないと感じます。
「それは今後の本編で明らかになるかもよ」という意見に対しては、「映画の行動の答え合せを本編でするなよ」と思いますし、理由は本当に『世紀末の魔術師』における「こいつ(鳩)を助けてもらったから」くらいのキザな理由でもなんでもいいんですよね。
ただ、盗一にとっては、今のところ、自らの意図をキザに嘯く相手がいないという点から仕方なくはあるとも思えます。優作に今回の事件のことを嘯くのは意味不明だし。だとしても息子キッドによる「なんで親父が!? きっとこれこれこういう訳で」といった類推くらいでもいいんですが。
ゴールデンカムイに布置できない怪盗キッド
次に二点目として、怪盗キッドの布置の困難性は劇場版コナンの亀裂として年々悪化してきているのではないかという分析を行いたいと思います。私の周りの関西女子たちも「悪いけど、キッドもう飽きた」と漏らしているように、怪盗キッドが登場する劇場版は、『世紀末の魔術師』をほぼ唯一の例外として、『紺青の拳』しかり、『業火の向日葵』しかり、古くは『銀翼の奇術師』しかり、軒並み微妙な評価しか得られていません。それは、怪盗キッドの世界観と近年のコナン映画のスケールが合わなくなってきているというのが最も大きいのでしょうが、本作のような「陣営」バトルでは更にその乖離が拡大されるといったところでしょうか。
前項で指摘したように、クローズドサークルの謎から導出される隠された「陣営」を含めて、本作では操車場における仮面書生とのチャンバラ、カドクラとの運河道のカーチェイスや、斧江拓三によるリタイア謀議など、「陣営」による争奪戦が物語を駆動するエンジンとして機能していました。
「北海道」で「陣営」に分かれた「お宝」の「争奪戦」といえば、近年の成功例としてどうしても『ゴールデンカムイ』が想起され、幕末明治期の土方歳三と五稜郭や、戦前の第七師団と函館財界の協力の経緯、さらにはCV:津田健次郎など、個々のガジェットも『ゴールデンカムイ』要素を強く想起するものが多く看取されました。それ自体は「北海道」にまつわるミームとして許容できる範囲ではありますが(さすがに「アイヌの少女」は出てきませんでした)、着想の底流にあるのは間違いないでしょう。
そのように「陣営」から組み立てたシナリオにあって、単独犯としてキザに立ち回らざるを得ないキッドの存在はどこにも布置できないのが明確なウィークポイントになっています。本作では電車の中で蒐集した刀をコナン平次に渡し、沖田に変装することで北海道警と連携するコナン平次陣営に隠れん坊をすることでようやく立ち位置を得ていますが、いかにも苦しい。実際に「うぜぇ」とコメントされているように、コナン平次の胸先三寸で、いつでも斬り捨てられるポジションに過ぎません。
また、上記はある意味でメタ視点を調教されすぎてしまった視聴者たちによる開き直りの手法でもあります。つまり本来であれば「キッドは実はこの人物に変装していたのだ!」がミステリのカタルシスの一因になるべきところ、あまりにもカジュアルに変装を繰り返すことで、キッドはもはや「こいつキッドじゃね?」というミームが生まれてしまうほどに、アイデンティティの攪乱を常習化させてしまったのです。
その結末が良いものであるはずはなく、具体的には沖田というキャラクターが「変装先」として「潰されてしまった」ことや、盗一にまで「変装先」を与えるため、ムダに多数のキャラクターが導入されざるを得ず、さらに視聴者はそうした「変装先」のキャラにはヘタに感情移入ができないという、物語への没入を疎外する要因になってしまっているのです。
「敵」と「味方」が裏切りやスパイを通してコロコロと明確に色分けして入れ替わるのはアクションスペクタクルの見所でもありますが、その前提には、個々のキャラがアイデンティティを具備したカント主体的なプレイヤーであるという前提があります。キッドが「敵」と「味方」の曖昧なまま立ち位置を固着させ、登場人物全体から主体性を剥奪してしまっていることで、そうした見所が暈かされてしまうという効果が出てしまっているとも言えます。
また、キッドの「参戦理由」も、非常に弱い。『ゴールデンカムイ』では、杉元は「幼なじみの目を治療したい」、鶴見中尉なら「近代国家の歪みとしての明治残酷物語の被害者たちの理想郷を築く」、土方はウィルクに共鳴して「帝国主義に対抗し、少数民族の理想郷を築く」といった無垢な恋心や、カリスマとしての強度を持った目的意識を掲げており、どの陣営の必死さも納得のいくものとして提示することに成功しています。
本作はカドクラの「儲けたい」や斧江の「再興したい」といった、似たり寄ったりの因業な経済的要因しか示されていないので影に隠れていますが、キッドの「親父の思いを知りたい」が、応援したくなるほどの強度を持っていたと言えるでしょうか。(「親父の秘密を知りたい」ならまだ応援できたかもしれない。)
人々がコナンに求めているのは「景気の良い大爆発」や「重厚に練られた推理パート」、あるいは百歩譲って「最近のトレンドを取り込んだトリック」(IoTなど)なのであって、キザで/人殺しを嫌い/単独で”ショータイム”を企図することで、その全てを排除せざるを得ない怪盗キッド登場回は、ラーメン屋にこってりスープを飲みに来た客に対してあっさりヘルシーうどんを饗するような倒錯した行いになっていると言わざるを得ないのです。
よって、怪盗キッドが輝ける舞台は、映画というより60分モノの「テレビスペシャル」レベルが適当ではないかと考えられます。ぜひ、劇場版コナンからのキッドの排除を真剣にご検討いただければと、そういう段階に来ているのではないかと思います。
そして、以上のような隘路と心中しながらも、なにゆえ頑なにキッドを登場させようとするのか、という疑問に対し、現状、原作者・青山剛昌の発言力の強化以外に満足のいく説明が為しえないのではないかと感じます。今作では、スターシステム(手塚治虫作品のように、舞台の異なる別の作品同士で世界観やキャラクターが共有されて登場する手法。近年では辻村深月のキャラ流用などが代表的)をもはや隠そうともせず『まじっく快斗』からも『YAIBA』からも続々とキャラクターが流用されています。
これは好意的に解釈すれば、過去作にスポットを当て、我が子である作品を慈しむ姿勢とも言えますが、大抵は牽強付会の誹りを免れないでしょう。『まじっく快斗』の風呂敷を畳むのがリソース上しんどいからといって、コナンのフレームを用い、コナンの面白さを減殺してまで畳もうとする姿勢は、『コナン』それ自体のファンに対する権力者側の「他の作品も読んで勉強しろ」という強要に他ならないですし、キッドによるコナンリソースの盗用(ただしく”怪盗”である!!)とも言ってしまえるのではないでしょうか。
「新一とキッドの顔が似ている」のも、そもそも視聴者たちは青山剛昌の描き分け能力が低いだけだと分かっている訳ですから、「盗一と優作の双子関係」などといった妙な意味づけをして整合性を図ろうとするのは端的に言ってサムいですし、じゃあYAIBAから持ってきた沖田総司についても蘭は「新一に似ている」と評価している訳ですが、そこの二人の顔が似ているのは意味づけせぇへんのかいってことで、なんとも中途半端です。
以上のように、キッドの登場にまつわる権力者側の事情が、コンテンツの強度と雅趣を著しく損ねていることには、もう手遅れだとは思いますが制作陣としても向き合って欲しいと思います。
スタート地点としての『世紀末の魔術師』
冒頭に引用したとおり、今作は『世紀末の魔術師』のセルフオマージュとして位置づけられるのではないか、というのが我々の見立てでした。ドンパチのガジェットは上述したように「陣営」というテクニックを用いて盛り上げていますが、底流にあるテーマが第二次大戦期の暗号機という歴史ロマンに立脚しているという意味で、そのことが達成されているのではないかと感じました。
実際、1999年の『世紀末』が1918年のロマノフ王朝滅亡という、当時から見れば81年前の歴史事蹟を取り上げているのに対し、2024年において1945年を振り返るのは、時間軸としては同程度のスパンとなっていることが分かります。ただ、『世紀末の魔術師』が王朝の末子が日本に亡命していたという大風呂敷を広げていたのに比べると、今作は偽史としても強度を持った世界観を提起できるほどではなかったでしょうか。
また、「お宝」への暗号の鍵になるのが、『世紀末』ではエッグという鑑賞物で、またそのものがアルバムになっているという見所をもたらすことで自立していたのに対し、今作では刀というものが、観賞用というよりは、制作陣の偏愛する土方歳三の過去シーンや、現代の服部平次による武器使用といったプラグマティックな都合で導入されているのが、ファスト時代的ではありました。
主題歌『相思相愛』
ロキノン大阪(CV:FM802)が誇るシンガーソングライターaikoによる『相思相愛』がテーマソングでした。タイトルやワーディングは平和意識のように見えて、実は「キッド→盗一目線」の親子愛と考えたほうが解釈しやすそうでもある、両側に目配りしたバランス作品になっていると感じました。(それはあなたが子育て世代のおっさんだからだよというツッコミはなしで)
YouTubeのコメントに付いている「わたしはあなたには(素直に)なれない」って意味では?? → 「まさか、ここまでとはな」かよ
ってやりとりの様式美が最高です。
次回作予告
どうやら長野県警が舞台になる模様です。長野県警は怪しさMAXの黒田管理官の出向先であることを始め、大和敢助、スコッチの兄諸伏高明、上原由衣など役者が揃った、原作でも随一の優秀な県警です。警察が主になることで、伊織にクローズアップしていくことも改めて期待しておきましょう。
豪雪の地を舞台にした映画としては『沈黙の15分』の悪夢が蘇りそうなヤバい映画が懸念されますが、現代の技術でダム崩壊CGをリメイクしても良いのかもしれません。クローズドサークルとしては「絶海の孤島」と双璧をなす「吹雪の山荘」が立ち現れるのか。
あるいは、オリンピックにあやかった『緋色の弾丸』のように、万博にあやかったグローバルな催事に際してテロを導入し、全国の警察オールスターズを集合させて対抗するみたいなストーリー建てなら、近年のコナンにスケール感を合せられるかもしれません。
マジ回とはっちゃけ回の輪番のうち、今回の、園子大好き永岡監督が子ども向け映画を担保するはっちゃけ回を担っているのであれば、右翼発言大好きの立川監督が万博を取り扱って、今度はどんな愛国セリフをあむぴが叫ぶのかも楽しみなところです。
さーて、今回の阿笠クイズは?
内容を云々するのはもう已めておきますが、出題の際の阿笠の動きがプリティウィッチハズキッチだったのがとてもヌルヌル気持ち悪かったというのが大方の評価でした。
正直、北海道新幹線のスタンプから「刀の柄を五稜郭に合せる」をひらめくのは無理がありすぎて最初意味が分かりませんでしたし、「みちしるべ」はタイトルになっているわりには阿笠(光彦強要)ライトニングが義務感に満ちていたのが残念だったというか、もうドローンでええのにでした。
クイズは必須なので仕方ないのですが、それだけに尺は最小限だったでしょう。『黒鉄の魚影』であれだけ盛り上がったはずの哀ちゃんは、もはや事後のテンションでした。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?