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さよなら絵梨がなぜTwitterでウケているのか

私(Twitterユーザー)は面白いと思ったのですが、妻(非Twitterユーザー)にはあんまりウケなかったのでその違いは何かを考えてみました。
結論は、藤本タツキ氏の作風であるテキストで語らず、絵で語るスタイルが、解釈の幅を生み出すからです。付け加えるとクリエイターを主人公にしていることが、クリエイター気質の人々にウケるというのもあると思います。それゆえに、解釈好きで、クリエイター気質のTwitterユーザーには、語らいの格好の題材になるということです。

さよなら絵梨 - 藤本タツキ
病の母が死ぬまで、スマートフォンで撮影をしていた優太。彼は母の死後、自殺をするために向かった病院の屋上で、とある少女に出会い、映画を撮影することになるのだが……!?

上記HPより

で、その背景として、現代の創作は「わかりやすさ」を求めるあまりに「説明しすぎ」という風潮があります。その原因として、下記の記事では①制作委員会方式のため、最もレベルが低い読み手に合わせざるを得ない、②リテラシーの低い観客でもSNSの普及によって簡単に悪評を流せるので、阿らざるを得ない、③読み手の感想が届きやすいプラットフォームの整備により、ツッコミを受けない整合的な内容にするインセンティブが働く、④少しでも分からないと、すぐに別のコンテンツに移られてしまう・・・などの分析がされており、慧眼だと感じます。

一方で、だからこそそうした「分かりやすい」作品群に物足りなさを感じる一団も存在する訳で。「分かりにくい」作品を「分かる」ことができる、つまり「分かりやすい作品を求める低リテラシー層」から切り離された自己認識を持つインナーサークルを形成することでオタク文化は成立してきましたが、果たしてそれだけでしょうか。

歴史学者のミシェル・セルトーは、能動的な生産という行為に対立する受動的なものと見なされがちな消費という行為を、「支配的な経済体制によって押しつけられたさまざまな製品をどう使いこなすかによっておのれを表わす」、一種の不可視の生産としてとらえている(Certau,Michel de,1980,L'Inbention du quotidien,1:Arts de faire, Union Generale d'Editions.(=1987山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』14、強調原文)。
・・・
「「消費」と形容されている生産」(同14)である。・・・

『宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学』東園子(2015)P8

Twitterユーザーが、様々な創作に対する感想をtweetすることで、日々「「消費」と形容されている生産」を行い、楽しみを得ているのだと考えるならば、「解釈の幅を持つ」「クリエイターの気質を掘り下げた」作品は、二重の意味で彼らの琴線に触れることになります。
そうした作品は、「分かりやすい」作品に浸食された創作界にあって、非常に稀有な素材であると判定されます。これが藤本タツキ作品のウケる理由だと思います。

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