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市民のためのスカイウォーク Skywalk for Citizen #5

続きです。

T 今日(2021.4.4)は第5章 大航海時代を取り扱います。Kの卒論に阿るなら、第5章かなと。

K 私の卒論は第7章の時代の海賊だから、もう終わった。

T あ、そうなのか。

K ルネサンスか大航海時代が良いかなと思ったけど、ルネサンスはこのテキストではさらっと終わっているので、大航海時代で。

Y 今回の範囲は、ひととおり目を通したときに面白いと思ったのは、グローバル化の歴史の起源を巡る論争というコラムで、フリンさんが1570年のマニラ建設が一つのタイミングだったという主張、これがアカプルコとマニラを繋いだ、阪大でよく出てくるアカプルコ貿易。知らねーっという(笑)

K わたしらの年の入試で出た。それは知らんとあかんやろ(笑)

Y 貿易のルートができた、システムが構築された年、だからこの年だというのがフリンの主張であって、ウィリアムソンがそのカウンターとして提唱したのが1820年代の、西欧と北米の価格の統一が一つのきっかけという、物価基準がグローバル化の基準という主張が二つある。そこから派生して、歴史用語で天下統一ってあるけれども、ピンときていなかったけれども、始皇帝が中国を統一した一つが、貨幣が統一したとかという織田信長が天下統一を目指したのは、日本の何をもって天下統一の指標としようとしていたのか、という考えが派生していきました。天下統一は、何をもって天下統一と言うことが多いんでしょう。

K 日本史はあんまり分からない。育休前はやっていたけど、今はやってない。

T 始皇帝が貨幣や度量衡を統一したことのアナロジーで言うなら、豊臣秀吉が行った石高の統一や度量衡の統一といったあたりかな。貨幣の統一をグローバル化と評価するのは、そういう文脈で見れば良いんでしょうね。

Y どちらかというとぼくは、グローバル化の基準はシステムの構築、フリン派なんだけど、主流派が1820年代だって言われて、あ、そうですかという感じ。

T 世界システム論が阪大の学説の中核にある理論なんだね。あんまりインパクトが分かっていなかったけど、確かにここまで読み進めてくる中で、かなり商業が歴史のエンジンだったという史観を阪大の人たちはもっているんだなという印象は持ったし、入試にもそれが反映されているんですね。

Y 反映されている。アカプルコなんか絶対教科書に書いてなかった。

K 当時はまだあんまり銀による世界の一体化が注目されていなかったんやな。今は普通の教科書にもそういうページが設けられている。この10年でだいぶ変わったよな。入試問題にいっぱい出るから、それに資料集が対応している部分もあるけど、阪大より東大が先に銀による世界の一体化を出題している。「銀が繋ぐ世界史」というページが丸々1ページあります。地図、銀の産出量、多角的貿易、船とか色々。

T ガレオン船による交易ね。

K アカプルコ貿易はコラムになっている。

Y ガレオンとアカプルコ貿易は同じ意味だと。

K それが紹介されていたり、この間も話になったけど、石見銀山。

T 島根県ノルマをクリアしました。

K 今回も石見が出てきました(笑)ポルトガル人が書いた地図にも石見の地名が載っていますとか。福井、長門、安芸みたいな主要な国名に並んで石見がバッチリ載っています。だからスペインやポルトガルの人からも重要な場所だったと。

Y そのページの世界地図の、フィリピンから太平洋側に赤い船が出ている。これがアカプルコ貿易だけど、そんなのぼくたちの時はなかったと思う。世界の3分の2だけで終わっていた。

K だからフリン説をちゃんと反映しましたということね。確かにわたしらにはフリン説の方が馴染みやすいよね。阪大ってアジアのこともちゃんと考えろという方針だから、環大西洋世界の物価統一だけをグローバル化とみなすなという意味ではフリン派やな。グローバル化の中身で行くと、19世紀かもしれないけど、カバーしている領域としてはフリンの方がグローバルやなと、この本を書いた人たちは言いたいんだよね。

T 「ヨーロッパ側の需要のダイナミズムに着目したのに対し、アジアとアメリカ大陸から生じた需給のダイナミズムを重視」というのはそういうことやね。

K だから内容を取るか範囲を取るかということやな。どっちが起源かというのは。

T 1820年代の価格統一というのは、ナポレオン戦争の後だから、この間も話をしたけど、金ですよね。銀本位から金本位にシフトしたことによって、初めて価格統一が図られた。銀というのは、常に価格差を生ぜしめて、様々な経済的変化をもたらしたものだった気がする。銀は最後まで統一貨幣たり得なかったという史観が正しいのかな。

K うん。銀を経験したからこその金だと考えられるよな。

T 銀が経済をぐちゃぐちゃにしたのを見てきたからこそ、金はそういうことのないようにという。

K 金で仕切り直そうという。そうも言えるな。しかも銀はアジアとかメキシコの、ヨーロッパ的には周辺地域でよく産出されていたから。金はアメリカとかオーストラリアで採れるのは、むしろ列強側で採れている感じになるからコントロールしやすい側面もあったのかな。

T それがゴールで、だから今日の話は金本位にシフトしていくに至るまでに、銀がどういう体験をしてきたのかを、大航海時代からウィリアムソンの時代までのスパンで学びましょうという章なのかな。

◆明朝の銀による徴税、海禁政策

T 先程の銀の生産量のグラフを見せていただきたいのですが。

K ああ、これ。

T 16世紀から17世紀に、アメリカ大陸の銀のおかげで跳ね上がっているんだね。

Y ポトシ銀山だっけ。

K そうやな。ポトシ銀山。

T それで、1545年に発見された新しい製錬技術、水銀アマルガム法が、技術革新によって価格革命の一因になったと。開発と新技術が二つの要因としてあって、銀生産が飛躍的に増えたと。

Y 書いてあるね。メキシコーマニラ経由。高校生の時に見ていたらなんでこんな太平洋を横断するルートやねんと思うやろうな。

K わざわざみたいな。でも中国で使うから、そう持って行った方がいいんやな。

T そうそう。で、その銀が、中国にどんどん流入していきましたという話やね。中国の税制、完全に忘れていたんやけど、一条鞭法ってありましたよね。

K それな。あったね。

Y 懐かしい。

T そんなにツボなの?

K 地丁銀との違いをよく書かされるから。

Y 書かされた。

T どう違うんですか。

K 明が一条鞭法で、清が地丁銀というのが大枠で、その違いは教師になってからはもう出題する側になったけど。両方銀なんやけど。こんな表があります。

Y この表はめっちゃ覚えている。

T 中心となる違いは何なの。

K 一括納入で、ごちゃごちゃした税制を整理しましたというのを書いたらOK。

Y 雍正帝か。康熙、雍正、乾隆の。

K そうそう、雍正帝の時代。今日の範囲はヌルハチまでしか出てきてないけど。多分この表は昔の資料集にもあったと思うよ。人頭税を止めて、止めたからそれまで人頭税が重くて、戸籍を偽っている人がめっちゃおってんけど、土地税だけになったから戸籍を偽らずにちゃんと登録する人が増えて、国家が人々を管理できるようになりました、というのが大きい点かな。

T それは逆説的で面白いな。人頭税は本来管理して課そうとするものだけど、廃止することで却って管理が促進されるという。

K それによって中国の人口がこのときめっちゃ増えたと。この人口が増えた理由も記述でよく書かせる。中国の人口の変化のグラフを出して、清の時代にバーンと増えた理由の一つが、アメリカ原産の作物が流入したこと、トウモロコシとか。もう一つが人頭税。両方書かせる。

T 全然そういう視点はなかったな。面白い。

K 人口に注目するのも流行で。

T 流行なんやな。気候に注目、人口に注目。

K よく書かされる可能性が高いから言っとかなあかん。

Y それが歴史の記述の面白いところで、ただ単に覚えさせるだけの選択式で乗り越えられるセンター試験と違って。いかにハッタリをかませるかという。

K そうそう。いかにお話を作れるかということやな。

T 銀納という制度が一条鞭法で導入されて、地丁銀にも受け継がれていくと。

K そう、両方銀やな。

T 税の道具にするというのは、銀山から得た銀、商品との交換によって得た銀、銀商人という人たちがいて、徴税の方法として銀を導入することで、銀商人はめちゃめちゃ儲かりますよね。

K 銀商人ってのはあんまり出てこないかな。

T 銀商人が分かりづらいなら、銀を掘り出している人は居るでしょ。

K ポトシ銀山で働いている人ってこと?

T まあそういうことやね。そこから銀を持ってくる人。銀が掘り出されているというのは、交換価値が掘り出されている訳だよね。それを明国に持ち込んで、もちろん他の商品との交換もできるんだけど、税制にされていることによって、すごく安定した卸先があることになる。天然鉱物を掘り出す時って、安定した卸先がすごく大事だと思うんだけど、貨幣になっているというのもそうだし、税の納入の手法になっているということは、銀を掘り出すという産業の下支えとして機能しただろうなと思いました。

K なんか分かった。言いたいことは。掘り出してもホンマに売れるか自信がなかったらよぅ掘らんよなということやな。やからちゃんと税になっているというのが。でも税になったんは明からやけど、モンゴル帝国のときにはわりかし銀を使っていたから。

T 銀が実態として貨幣として流通していたのはそれでいいんだけど、それがさらに税制になることによって、安定した卸先として機能するようになったというインパクトがあった。もっと分かりやすく言うと、税を車で納入するってなったら、車をどんどん作るじゃん。農民たちは必要も無いのに車を買わされる。まあ製造業とはちょっと違うかも知れないけど、税の手法にするということはそれだけのインパクトがある。

K なんで税にしたんやろ。

T 嵩張る銅銭によって徴収するより、銀の方が軽くて利便性があったとかじゃなかったっけ。

Y 銅銭は日本への輸出品として扱われたという説はないですかね。日本ではめちゃめちゃ流行っていたから。

T 銅が日本に流出したから、ということか。

Y そうそう。日本で一番流行っていたのが永楽通宝で。

T 日本では銀銭はあまり流行らなかったのか。

K 流行ってないな。

T 銀はもう掘り出して、輸出していくだけだったのか。だから貨幣として流通させるに当たって、国際的に使えるものを優先的に国際的に使っている。国内的にはそれ以外のもので回すと考えるなら、銀を国内的な流通貨幣にできた明の強さがさらに際立つということか。

K そうやな。日本でも採掘はしているのに、流通はしなかった。

T ただそうしたことで、アヘン戦争・アロー戦争の悲劇が生じる。銀が流出したときに、税制自体が崩壊して社会が崩壊するというところまでは、考えていなかったと。

K そうやな、結果的に。

T 車で税を納めていたら、車がどんどん輸出されたときに、農民が車を買えなくなって、税を納められなくなるようなもので。そこまでは想定していなかった。交換価値を掘り出しているということは改めて感じました。

K 言われるとせやなという感じ。銀を税に使う意義。

Y 基本的な質問ですが、明は海禁政策をなぜ行ったんでしたっけ。この章を読んでいて最初の方に、日本と明の貿易は制限されていたとあって、そんなことあったかと思って読み進めたら海禁政策とあった。

K 朝貢貿易をちゃんとするためやな。一言で言うと。明の時代は直前が元だから、伝統的な漢民族の権威が低まっている時期で、なんとか立て直したい部分があって。明王朝としては。当時貿易は、朝貢貿易ひとつだけじゃなくて、私貿易、民間貿易と両方あって、その中で明が成立した当時は民間貿易の方が多く取引されていたから、それじゃ朝貢貿易、冊封体制の意義が喪われるから、それを立て直すために民間貿易は禁止、朝貢貿易のみにするとしたのが海禁政策やな。

Y なるほど。国家権力というか、体制を充実させるための海禁政策を始めたと。

K そう。あくまで中国の産品は皇帝から授けられるものであると。そういう形式を取るために海禁政策を始めたけど、結局実態に合っていないから、後期倭寇とか密貿易が起こってしまいましたよねということ。

T その中に鄭和の遠征がどのように位置づけられるかを改めて考えていたんだけど、阪大の入試にも出たことだし。皇帝の命令で行っていると言う意味で冊封の一環というか、私貿易ではなくて、公貿易の一環としてやっている。そういうことも皇帝はできるんだというか、非常に遠距離の貿易を。でも高校生の頃学んだ時って、鄭和こんなところまで行ってたんだね、凄いね、っていう印象だったんだけど、別にそうじゃないよね。イスラム商人が既に行き来をしていて、今から考えると、鄭和、今更何やってんの?という感じ。

K 鄭和ってムスリムじゃなかったっけ。

T 鄭和はムスリムだね。

K やから、ムスリムネットワークを使えば、チョロいよね。

T チョロいチョロい。鄭和はムスリムなんですよ。だから鄭和すげえなと思ってたけど、鄭和チョロいやんという。だからむしろ、海禁政策の中でそれができたのは皇帝だけだったということを示すという、示威行為なんですよね。国威発揚のためにやっている。だからこそキリンを運ぶということに意味がある。キリンという瑞兆の証を貰えるくらいに東アフリカとの交易ができて、東アフリカからも朝貢してもらえるんだということを内外に示すと、そういう意味として鄭和を位置づけるのは、流れを知ると新たに分かりました。

K それをキリン問題で書いたら、完璧な説明やね(笑)

Y その問題、今年じゃなくてよかったわ(笑)

K 昨年もエグかったし。

T 鄭和がムスリムだったのは、雲南で銀が産出されて、中国の銀の6割くらいが雲南地方から産出される。

K そうなん。中国からも産出するんや。

T しててんな。

K そうなんや。てっきり日本銀をパクってるんやと思ってた。

T 元の頃に銀の採掘のために雲南地方にイスラム教徒を移住させたという政策があったみたいで、それで南部地方にイスラム教徒がどんどん増えていったということだった。

K 授業の小ネタ的にはバッチリやな。銀の採掘のためにムスリムをどこからつれてきたんやろ。鄭和がムスリムと言われても、何系ムスリムなんかな。東南アジアなのかトルコ系なのか、そこまで調べたことなかったけど、ちょっと興味が湧いてきた。中国のどっかにもともとおったムスリムとしか捉えてなかったら。どこから来たんやろう。

Y 明が雲南を占拠したとき、捕虜となって宦官にされたらしい。詳しい経緯は分かっていない。これの出典が、『明清と李朝の時代』岸本美緒他という本です。世界史の窓。

T さっきおっしゃってた、後期倭寇。これは興味深いと思って、やっぱり海禁政策には無理があった。私貿易を制限しても、高まる需要は抑えるべきもなかったということですね。

K まあ無理やんな。

T 日本も銀を出して、綿花と生糸が欲しかったのもあるし、後期倭寇って倭の文字がついているけど、実際は日本人だけじゃなくて明の商人すら自演していた部分がある。ポルトガル人も当然居ただろうし。

K 混血も進んでいたしみたいにテキストにも出てきたよな。P118。バイリンガルや混血も普通になっていった。

T そういう感じで港町に色々な人種が混ざり合うのはあるよなと思った。

K 鄭成功って覚えてる? ちょっと時代はくだるけど。

T 明が滅ぶ直前じゃなかったっけ。

K そう、だから後期倭寇MAXの時期とは違うかも知れないけど、鄭成功はお母さんが長崎の人で、それもちょっと不思議に思っていたけど、こういうバイリンガル混血が普通になっている中で、そういう出自の人が多くいたんだろうなと思った。

Y 台湾の人か。

K 最後まで清に抵抗していた人として。

Y 『国性爺合戦』の主題になった人か。

K それそれ。やからこの人も、そういう人の一部だと。

T なるほど、後期倭寇の産物ということね。文字通り。

◆スペインとポルトガルの初期大航海時代

K 副読本、なんてタイトル? その本、買いやなわたしも。

T 割と良いよ。ちゃんと論文引用とかしてないからどこまでホントか分からないところもあるけど、阪大のテキストとある程度一致しているし。『商業から読み解く「新」世界史 古代商人からGAFAまで』宮崎正勝かな。

K GAFAとか言われると怪しいな。中身ちゃんとしてるの?

T 著者自体が70代後半の人だから、もうなんか勢いで書いている部分もあるし、話もあちこち飛ぶし、出典何やろというところもあるけど、阪大のテキストと合わせて読むと、記事は面白いよ。

Y 講談社新書並の出典力やな。レポートに引用するのは許される程度。

K 多少大目に見て出版されたんやな。

T 確かに、井沢元彦―呉座勇一論争も、両方沈んで行っている気がするよな。呉座先生が炎上して。

K なにそれ。

T 『応仁の乱』を書いた呉座勇一先生が最近ミソジニー発言をしてSNSで炎上して、大河ドラマの考証を辞任したとかニュースになっていた。

K そうなん。応仁の乱、ベストセラーになっていたよな。怖いな。ひとこといらんこといっちゃんたんやな。

T 高校の社会科であんまりホットじゃなかったの?

K 多分わたしが日本史に興味ないんやと思うわ(笑)

T じゃあヨーロッパの方行きましょうか。スペイン、ポルトガル、オランダね。

Y エンリケ航海王子っていたじゃないですか。テキストには出てこなかったけど。

T 居たね。

Y 大航海時代と聞くと、エンリケ航海王子が最初に出てくる。ヴァスコ・ダ・ガマを支援した人ね。自身は船酔いで船には一回も乗ったことがないという。乗ったことはあるのかも知れないけど、乗りたくないという。

T 自分が船酔いである事を確認するためには一度は船に乗らないとあかんよな(笑)

Y マゼランが世界一周の過程で、マクタン島で。

T ラプラプ王ね。

Y ラプラプ王にやられて、そのあたりはクイズに出てくる。あとマゼランの跡を継いで世界一周を成し遂げた人。

K 奴隷やっけ。名前あった?

Y エルカーノ。

T 知らんよそんな人(笑)

K 知らん知らん(笑)

Y それを答えないとあかん。

K クイ研の期待に応えるために、知っとかなあかんな。

T 喜望峰ルートの必要性と実現性という話でよく言われるのがオスマン帝国による地中海の封鎖が西欧諸国にとって喜望峰ルートの開拓を必要とさせたというのは、それはそうだなと思うけれども、宗教と貿易の発展がどのように変化していったかに関心があって、最終的にオランダという宗教性が薄い国家が勝っていく。スペインやポルトガルは宗教性が強かったゆえに、宗教戦争に富を浪費して敗北していったという流れの中で、ただ最初の段階においては宗教が貿易を促進した側面があって、副読本にあったけれど、聖ヨハネの国という。

K ああ、プレスタージョンの王国の話。

T もともとセルジューク朝に勝ったモンゴル帝国があったという話の中で、十字軍たちを鼓舞したという話だけれど、ポルトガルが進出していった背景には、ポルトガルという国は産業もなく、スペインに国土を包囲されている中で海の方に活路を見いだしていくしかなかったのだけれど、アフリカの中央くらいに聖ヨハネの国があるという伝説があって、そこと挟み撃ちにして、いまイスラム勢力が支配しているモロッコやチュニジアを奪還していこうというレコンキスタを推し進めていこうという動きの中で進出していく。

1492年レコンキスタ完了とよく言われるけれど、完了した連中がさらに北アフリカに進出していこうという動きは、なかったのかなと改めて考えると、それはあったんだろうなと思う。国土回復だけじゃなくて、さらに北アフリカまで勢いに乗って進出していこうと、その一環として喜望峰ルートや北アフリカとの交易が発展していったということなのかな。宗教が貿易を促進した側面として。

そのときに、航海の手法として、いったんアフリカ大陸に渡ってしまうと、そこから風が強くてポルトガルに戻れなかったけれど、一回大西洋側の中継地点に行って、そこから偏西風に乗って戻ってくる航路が開発されて、それによって北アフリカとの交易が可能となったことがあったらしい。だから宗教的なものもそうだし、地球規模での風の動き、海の回転という言い方をするらしいけど、海の回転が解明されたことによって、大航海時代は支えられたというところがあったと思います。

K それはあると思う。というか、そういうふうに紹介されているんですよ。資料集では。レコンキスタの延長としての海外進出。聖ヨハネの国ってプレスタージョンのことやな。

Y 聞いたことはある。

K アジアのどこかにキリスト教国家があって、そこと一緒にイスラムの国を挟み撃ちにしようという期待。

T その両方が宗教性に基づいている訳じゃないですか。イスラムとのバトルが、開拓というか冒険を促進していく。

K あとは好奇心かな。マルコ・ポーロとか、元の時代にアジアに行っていたヨーロッパ人からもたらされた情報で、アジアへ行ってみたいという情熱が高まったという言い方もするけれど。

T ロマンチックではあるね。

K そのへんはちょっと高校生に楽しんでもらうためにね。あとは、もうちょっと大航海時代が進んでからになるけれど、宗教改革がヨーロッパで始まって、新教の人が増えるから、イエズス会的なカトリックの信徒を新大陸やアジアに増やしていくというのも後半のモチベーションの一つにはなっていた。

T なるほど、布教ね。布教というモチベーション。

K だから宗教と貿易はだいぶ結びついている気はしますね。

T だけどそれがやがて破れていった。

Y イエズス会の成立が1534年。

T よぅ覚えているな。宗教改革が1517年、イギリス国教会成立が1533年だっけ。

Y エリザベス女王の時代?

T ヘンリ8世じゃないの。

K せやな、まだヘンリやな。微妙なタイミング。

Y ドイツのアウグスブルクの和議が、1555年だから。

T スペインでもう一つ思ったのは、コロンブスの交換のあたりやな。ここは凄く面白いよね。さっきもご紹介いただいたけど、トウモロコシとかサツマイモとかがアジアにもたらされて、日本の天明の大飢饉もそれで乗り切った訳だし。

K 甘藷先生ね。

T そうそう、青木昆陽。

K それもコロンビアンエクスチェンジ無しには実現しなかったことや。それも資料集で一ページ割かれているよ。

T それで、副読本の方にはシンドバッドの交換ってのもあるのよ。

K なにそれ。胡散臭いな。

T ムスリム商人による西アジア、東アジア、ヨーロッパとの交換。

K なにやろ。

T コメやレモンみたいな農産品が地中海で大規模に栽培されるようになったこと。レモンブームが地中海で発展した。トルコのピラフ、スペインのパエリヤ、モロッコのクスクスなどのコメ料理は、ヨーロッパにおけるコメ栽培の拡がりを物語っている。

K まえ言っていたヤツやな。フランスがコメ食べる話。

T そう考えると、シンドバッドの交換があったから、帝国主義時代に西欧の東南アジア進出が生じていったのかも知れない。

K レモンって、どこ原産?

T インドのレモンが、地中海に渡った。

K そうなんや。地中海に元からあると思っていたわ。それまではなかったんか。

T これが10~13世紀くらいのムスリム商人の活躍によるシンドバッドの交換だと。そもそもシンドバッドをムスリム商人と捉えたらいいのかのは衝撃だったけど。

K ていうか架空の人物やんな。ネーミングそれでええんかと言う気はするけど。

T まあコロンブスみたいな代表的な人物がいないからかな。

K でも交換ってことは、逆は?

T 書いてない(笑)

K 西から東への移動がない(笑)

Y シンドバッドの題材になったのが千夜一夜物語で、それに登場するハールーン・アッラシード王が、8世紀後半の人物で、これはドラえもんのドラビアンナイトの知識なんですけど(笑)8世紀の東アジアと西アジアの接触と言えば、タラス河畔の戦いかな。


T 製紙法の西伝ね。

K ああ、751年。

Y だから、紙が伝わったくらい?

T それは逆じゃない? 製紙法も西伝でしょ。

K ホンマや。それも東から西(笑)

Y あれ、そうか。

K 蔡倫が改良したから。

T そうそう、で西伝した紙を用いてムスリム商人たちが手形取引を発展させていったという話だよね。それは東アジアから西アジアか。西アジアとヨーロッパ、ヨーロッパ→アジアが無いな。

K 無いな。

T 交換してなくね? という。

Y 今日の章でも書いてあったけど、ヨーロッパはアジアに出すものがなかったんじゃない?

K このテキスト、書きぶりがひどいよな(笑)なんも出すもんが無かったから銀にせざるを得ず、みたいな。

T ヨーロッパをディスりすぎ(笑)

Y 桃木さん主導で書いているわ。

K なあ。色濃く出てるわ、桃木色が。でも交換してほしいな。

T また考えてみましょう。西から東への物産を。スペインが新大陸に梅毒や天然痘をもたらしたという話は、これはすごく『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイヤモンドだなと思って。読みましたか?

K 読んでない。でもあらすじは友だちから聞いた。

T p282に、参考文献がありますよね。

K ああ、これ読んどけよ一覧ね。

T 気候変動、伝染病、科学技術と開発と人口などの歴史についてという中で。その影響は受けているなという気はした。

K みんな読んでたよね。

T この本の結論はそんな感じで、要するにユーラシアというのは横に長い大陸だった、他の大陸は縦に長い大陸だった。だからユーラシアが卓越した。家畜を育てたり、農業方法が横に伝わったりすることによって発展した。それによって家畜が伝染病を持ったけれど、人々は長い時間をかけて抗体を確立していった。新大陸の人たちはそれを持っていなかったから、コンキスタドールの侵略の時にバタバタと死んでいって、それは魔術的な強い力だと絶望に囚われたという、そういう話ですね。

K なるほどな。

T だから新大陸でプランテーションするにあたって天然痘に免疫のあるアフリカの黒人たちが連れてこられたというのは凄く分かりやすい構図ではあるよね。

◆ニシンの骨でできたオランダ

T オランダの方はすごく面白いと思った。オランダはあんまり高校世界史でやらないよね。

K わたしは好きだからやるけど。今は結構やる。西洋史の同期にめっちゃオランダを極めている人が居て、その人とか、一緒に取っていた講座の影響もあって、オランダをちゃんと言わないとあかんなと思ったから。

T オランダは言わないとダメよね。

K 17世紀はもう、オランダやでと。

T 17世紀って結構手薄になるというか、清教徒革命と名誉革命とかもっと別のことに触れて、オランダの繁栄を言わないよね。どう説明するんですか。

K 今はもうオランダだけで見開きの教科書のページが割かれているし、資料集もオランダのページがあります。

Y オランダは、ハプスブルク家から見ると独立された側だから、憎々しい存在ではある。

K スペインハプスブルク家的にはそうやな。

T 日本からしてもオランダは鎖国時代に交易していたから重要な国のはずなんだけど。

K 政治的な話はオランダ独立戦争くらいしか言うことないんやけど、オランダのことを言っておかないとそのあとの英仏第二次百年戦争とか植民地の取り合いが唐突になってしまうから、まずオランダが東南アジアや北米に進出していたこと、覇権国家とまでは行かないけど、グローバル化を推し進めたことは言っておかないといけないし、あとは金融をここで言っておかないとイングランド銀行の値打ちが分からない。産業やモノの話ではニシンがめっちゃ獲れたとか、国土が狭いからこそ貿易を頑張ったとか、意外と農業はちゃんとできたとか、色々と言うことはある。結局はわたしらがメインで勉強したことの前提みたいな感じのことをオランダを使って色々と説明するな。

T ほぼぼくが言おうとしたことを。やっぱりそのへんが。アントウェルペンからアムステルダムへの移動は政治史が絡んで面白いと思うよね。

K そうやな。オランダ独立戦争で。

T スペインが海上封鎖したから、もともと栄えていた中流域のアントウェルペンがどんどん衰退していって、アムステルダムに移行していった。「アムステルダムはニシンの骨でできている」という格言があるらしい。

K そうなん。ニシン漁の話はめっちゃ出てくるな。

T ニシンと聞くとすごく、北海道を思い出すよね。

Y ソーラン節ね。

T 北海道のニシンは卵も一緒に獲っちゃったから一気に廃れちゃったけど、オランダのニシンはどうだったんでしょう。

K 卵を食べるんかな、ヨーロッパの人って。

Y キャビア。イクラはロシア語やし。

T シャケの卵、サメの卵。ニシンの卵ってなんだっけ。

Y 数の子だね。でも確かに海外で数の子を食っているイメージはないな。

T ないよね。ないけど、だとするとちゃんと卵は獲らずに返していたから、バルト海においては持続可能なニシン漁ができたということか。北海道で行われていたのは持続可能性ゼロのニシン漁だったから。

Y 日本においては数の子がおせち料理に使われるくらい縁起の良いイメージを付けられているから。

K 北海道とオランダのニシン漁の対比、面白いな。その比べ方したことなかったわ。数の子を食うか食わへんか。

T 持続可能なニシン漁をしていたのかどうかは気になった。こんなにニシンのことを言うんだったら。

K ニシンはめっちゃ出てくるねんな。あとは渤海や女真の薬用人参とか、唐突に、それそんなに流通してたんみたいなものが出題されたりするようになったから。

T ニシンで記述問題つくろうか。

K 近世、近代におけるニシン漁の東西の比較。

T SDGsに乗っかってるやん(笑)でもホンマに北海道のニシン漁があんな持続不可能なやり方でされたのはもったいなかったと思ってるからね。「今、小樽やあの辺の地域を旅行すると、ニシン御殿の跡地が残っています。」から始めてさ。「それを可能としたのは、当時の持続不可能なニシン漁でした。彼らが富を浪費したが故に、現代の我々は苦しんでいるのです。」っていうあたりで。

K リード文そんなんから始めて(笑)深いな。それでもすごいいいな。もうオランダ過ぎちゃったけど。

Y 英蘭戦争って17世紀だっけ。

T もうちょっとあとじゃない。6章で出るのかな。

Y 確か英蘭戦争がイギリスとオランダの覇権の交代のイメージがあって、だから17世紀にオランダが繁栄したと言われると英蘭戦争までなのかなという。

K 17世紀の途中。そこで覇権は交代された。1652~74やな。

T ウェストファリア条約が1648年で、その直後ということね。だからオランダの覇権は17世紀の前半だけということか。

K あとは授業し直してそうなんやと思ったのは、英蘭戦争で仲は悪くなるけれど、結局イギリスとオランダは最終的に同君連合になっていくから。そこで対立がなくなるという見方をすると、ああとなった。オラニエ公ウィレムが招かれるやん。独立戦争じゃない方のオラニエ公がウィリアム3世としてイギリスに招かれたことをもって同君連合になるから、もうイギリスとオランダの覇権争いはなくなって、イギリスはフランスをライバルとみなすようになったと。その変化は高校生の頃は意識していなかったから。

Y ウィレムはスチュアート朝?

K 1689年、スチュアート朝の最後の方やな。名誉革命をきっかけに。

Y ジ、チ、チ、ジのジェームズ2世が。

K そうそう、ジ、チ、チ、ジのあと。うえたまが言ってたよな。

Y そのあとね。なるほど、ありがとうございます。

T だからイギリスとオランダは、一緒になって金融システムを開発している感じはあるよね。もともとはイタリアの都市国家、イタリア諸都市からバルト海や大西洋の沿岸へとヨーロッパの経済の中心が移動した。とp112にあるとおりで。ただ、交易のしやすさだけで発展していったというより、もちろんニシンはあって、バルト海や北の方の穀物やニシンを南へと移動させる交易の中心となる意義はあったけれど、別に目立った産品がないのにこんなに発展できたのは何故なんだろうと考えていて、やっぱりそれは金融システムだったんだなという気がした。

銀が大量供給されると、投資先がダブつくというか、どこに投資したらええねんというときに、金融システムによって株式や国債、オランダ独立戦争の国債発行に銀が使われたということがあって、金融システムが余っている資本を吸い込んでいくという仕組みを確立したことがオランダあるいはイギリスの優れていた点で、繁栄を享受できた理由だったと改めて思いました。

K スペインやポルトガルはそれをしなかったからという見方はできるやんな。

T そのときに、また宗教の話になるけど、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェーバーに書いてあるように、利子を許したというか、時間軸によってカネが増えていく、時は金なりという観念を生み出したのが、その裏打ちになっているという時代背景があるということだね。

K その見方でよいと思います。

T あとオランダは、法学部的には、国際法の分野で、グロティウスという人物が、そうかグロティウスはオランダ人か、という気づきが改めてありました。グロティウスのことはよく知っているんですが。

K よく知ってるんや(笑)教えて。

T あんまり知らなかったです。ごめんなさい。

Y 笑

T あれはトルデシリャス条約で新大陸が分割されてしまった後に、後発組だったからこそ自由主義を主張したという文脈で見ると分かりやすい。だから公海自由の原則で、オランダも参入できるように主張した。それはなんとなく後のアメリカの門戸開放を彷彿とさせる

K 同じことやんな。

T 自由を標榜する連中は、後発組なのだと、既得権からそういう発想は出てこない。

K 後発組の自由主義ね。

T という歴史の方程式は一つ成り立つかな。

Y だいたい文句言うのは後から出てきたベンチャー企業。

T 規制緩和しろって言ってくるんだね。

K 何事もそうやな。グロティウスをどう教えたら良いのかな。法学部的には。

T 公海という概念やな。それがまさに今にも通じているもんね。領海とか排他的経済水域とか接続水域とか。現代の国際法の原則にも繋がっている。

K そういう言い方をしたらいいんやなという方向性だけでも。「国際法の父やねん」で終わっちゃいがちやから、今との繋がりを言えると良いですね。

Y 「国際法の父やねん」は「ふーん、だから?」になっちゃうね。

K それは言いたくなったな。後発組の自由主義。

Y フランドルはオランダだっけ、ベルギーだっけ?

K ベルギーじゃない?

Y じゃあ、この時代のオランダには含まれているよね。

K 切り離されるんじゃない?

Y オランダって13州あって、ベルギー独立の時に北部10州がオランダ、南部3州がベルギーという記憶があったんやけど。

K 北部7州がオランダで、南部10州がベルギーやな。

Y 逆やったわ。

K フランドルはやっぱりベルギーやな。

Y ベルギー独立は何年?

K 1830年。

Y そんなに後か。その当時は毛織物って産業として成り立ってないの?

K 成り立ってはいるやろうけど、綿織物の方がいいなってだんだんなってきているんじゃない?

T 毛織物がいつ衰退し、綿織物に取って代わられたのかという話か。

K 生活革命が、18世紀。綿をいっぱい使うようになって。

Y そんな革命があるのね。

K 秋田ゼミではやったよ。コットンとか、ヨーロッパ外の産品がヨーロッパ人の生活を変えました、というのが生活革命。コーヒーハウスができるとか。そこで色々な啓蒙思想を喋るようになって。

T それをブラジルのプランテーションが発展していったのと裏返しで。

K そういうこと。それは明確にこの時期というより、18世紀を通じてかな。18世紀にイギリス中心の大西洋貿易が確立してからかな。英仏第二次百年戦争を経てと思います。

T ベルギーが注目されています。

K イギリスで囲い込みしているときは、囲い込みしているくらいだから、ヘンリ8世のときまではまだ羊毛が需要あると思う。

Y 昔地理でイギリスの産業を、ランカシャーの綿織物、ヨークシャーの毛織物と覚えた記憶があって、毛織物もイギリスの主要産業としてずっと定着していたというのがあったから、衰退自体はしていないかもしれないけど、主力ではなくなっているのかな。高校の時に世界史をやっていて、フランドルの重要性として毛織物産業の中心地だったからというのがあって、そこを取り合いしてフランスとオーストリアがよく戦っていたとか。

K だから毛織物産業で発展していたというのは出てくるけど、いつまでそこまで重要だったかはどうやろうな。

Y 分かりました。

K まあ18世紀には生活革命が起こったと。18世紀と言っても長いけど。

T 目まぐるしいよね。21世紀もたった20年で目まぐるしいけど。

K こういう資料で、ヨーロッパ人の生活が変わりましたと。服の素材が綿になったり、チョコレートを飲んだり、新大陸産のものを食べたり飲んだりしている。何年から変わったとは定義しづらいけど。

T なんでフランドルなの?

Y オランダに何も産業がないとか、だから金融を中心に考えたという話になっていたから、そのときにフランドルってオランダだよな? という気がして。

T そうか、だから産品はあったんじゃないかという話か。チューリップはあったよね。

K ああ、オスマンから持ってきたやつ。

T あれもコロンブスの交換やな。

K あれはどっちかというとシンドバッドの交換かな。

◆オスマン帝国の17世紀の危機

T p122で「オスマンではこのようなハッキリした危機的状況は見られないが」ってあるじゃないですか。

K ああ、17世紀の危機の話。

T オスマンは、『オスマン帝国』小笠原弘幸という新書が出ていますよね。

Y 著者は誰?

T 小笠原弘幸さんは東京大学の先生。

K その人の別の本を買った。オスマン史の人物伝記みたいな。

Y 別の人のオスマン帝国を読んだ記憶がある。

T オスマン帝国、もう一冊くらいあるよね。女性著者のやつだっけ。

Y そうそう。

T 17世紀から18世紀はオスマンにとって、政治的動揺も少なく、体制が変革されて発展していく時期として描かれていて、17世紀の危機をクリアしているという意味ではそうなのだけれど、変革は生じていて、というのは、さっきの宗教の話とも関わるけど、ティマール制から徴税請負制に変わっていったという話。ティマール制は地方において土地領主が徴税を自分たちでして、その代わり軍役によって国家に貢献するものだったと思いますが、ある意味で現物納付していた。それが徴税請負制に変化して、ちゃんと現金納付を国家に対してするようになっていく。

K それが17世紀?

T そうそう。

K あんまり教科書で出てこない。スレイマンくらいまで細かいのに、あとはいつの間にか衰退している。

T いつの間にかタンジマートに辿り着いているやろ。

Y ウィーン包囲はあったけど。

T 17,18世紀あたりにオスマンが、徐々に体制を中世から近世、近世から近代へと変革させていっているサマが、スレイマンからいきなりタンジマートに飛ぶと、いや300年間何してたんお前ら? という感じになる。

K そうやねん。そうやねん。ちょいちょい条約が載ってはおるが。割譲されまくって。

T これは凄くそのあたりを補完してくれる良い本なんですよ。

K やっぱ買おうかな(笑)

T で、デウシルメによってイエニチェリを供給していたじゃないですか。って言って分かるかな。

K 分かる分かる。

Y デウシルメ懐かしいな。

T キリスト教の子弟を地方から吸い上げて、彼らをイエニチェリとして教育するという方法でスレイマンやメフメトの軍が成立していたのだけど、だんだんイエニチェリが、コンスタンティノープルの都市民が供給するようになっていく。地方民じゃなくて。それはイエニチェリが持っていた様々な特権、税制や生活していく上での様々な特権を都市民が欲したから。別に戦争もないし、イエニチェリになっておこうぜという、イエニチェリが単なる軍事団体ではなくて都市の中間団体的な振る舞いをするようになっていった。

K 全然オスマン、教科書まだまだ雑やな。

T 地方においてはティマール制がなくなって徴税請負制になることによって、現金が地方に貯まっていく。上にも吸われるけれども、絞るほどに貯まるようになって、アーヤーンという地主層が力を付けていく。

K それも知らん。アーヤーンの台頭ね。5年後くらいの教科書には出てくるかもな。

T オスマンが宗教的な軍事国家から、官僚国家へと移っていく。縁辺部から収奪する国家体制から、管理体制へと移っていくというのも、この時代の特徴なので、それが「17世紀の危機なかったですね、おわり」だとちょっと物足りない気はした。チューリップもオランダに渡して。オランダのチューリップバブルの話があったじゃないですか。

K チューリップ時代。

T チューリップ時代はオスマン帝国やな。オスマンのチューリップ時代は自分たちのチューリップじゃなくてオランダからチューリップを貰っていて、輸入と輸出が逆転しているんだよね、あたかもインドの綿織物みたいに。

K そうなんや。

T だからチューリップから見るオランダとオスマンの関係は結構面白い。

K 今日は新しい視点をいっぱい頂いたな。ニシンとかチューリップとか。オスマンと言ったらウィーン包囲がらみかカピチュレーションみたいな、フランスやオーストリアとの話ばっかりだったから、オランダとの関係は新しいな。

T チューリップバブルが1637年が絶頂で、そこで大暴落するので、さっきの投資先がなかったですよねという中で、チューリップにどんどん投資してチューリップがバブル化していって、それが暴落した。その後すぐに英蘭戦争に移っていく。

K 英蘭ですね。

Y オスマンは東欧諸国にとってはめちゃくちゃ重要な存在だったんですよ。オスマン帝国があったからドイツは統一されたと思っている。ぼくの卒業論文のテーマも。

T オスマンの脅威があったということね。

Y 極論を言うとウェストファリア条約で各領邦、都市国家に主権が認められて、本来だったらそこでちっちゃいルクセンブルクみたいなのがいっぱいできるはずだったのに、それがオーストリアやドイツを中心に大きくなっていったのは、オスマン帝国の脅威に各領邦単体では賄えないから、イスラムの脅威に対抗して戦うキリスト教徒の代表は皇帝だと、その皇帝がドイツ領域、神聖ローマ帝国の死亡診断書を書かれたとはいえ、1804年までは存続しているから、その中にいるメンバーたちは最低限力を合わせないといけないというので、神聖ローマ帝国軍みたいなのができる。各領邦からそれぞれ軍隊を出させて。税制も統一して、トルコ税という対トルコ戦争の資金を供出するシステムができて。

T そう聞くと、オスマン自体は軍事国家から官僚国家にシフトしている中で、ヨーロッパの方は仮想敵をどんどん肥大化させて軍事国家化していったというのが面白いな。

Y それが17世紀末のカルロヴィッツ条約までの間の流れです。

K カルロヴィッツで西洋が上回るもんな。

Y ハンガリーを取ったのがデカい。トランシルヴァニア。

T オスマンがどんどん官僚化していって、ヨーロッパはオスマンを強く見過ぎたが故に軍事力を高めていって、ついに逆転したのが17世紀の出来事だったと。

K その見方は面白いな。

Y オーストリアやドイツが辺境の小国じゃなくなったのはここに理由がある。

T 国家体制の話に引きつけて言うと、第3章で、なんで重商主義は国家ごとにやったのかなという疑問が、いったんモンゴル帝国という大帝国を体験しているにもかかわらず、重商主義は国家単位でやりましたよねと。それを聞くと逆で、辺境の地には大帝国を成立させる条件がなくて、ルクセンブルク単位での国が勃興するはずだったけれど、もうちょっと大きい単位でまとまっておこうよという話になって、最初は大帝国の限界が生じたからやっぱり国家単位でやろうよというシフトしていったのかなと思ったけど、そうじゃなくて、やっぱりバランスオブパワーの世界の中で、そうせざるを得ない環境が国家を現在程度のサイズに留めて、だから重商主義になったという流れの方が理解しやすいのか。

Y 自分で管理できる大きさというのはある程度決まっていると。それをいかに繋げていくかというイメージ。

T だから国家が現在程度の大きさになったのは偶然でもあり必然でもあると。モンゴル帝国と、現在程度と、ルクセンブルクと。国家がどの程度の大きさになるかは様々な要因があって、現在程度のサイズになっていると。

【終】

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