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写真と短歌とTwitterに共通するものとそれを通して感じたこと。

ここ数年で自分で写真を撮ることが多くなり
また転職に伴いカメラマンを職業とする人にも多く出会うようになった。
写真を上達したいと思い、自分で勉強してみたり、カメラマンさんにアドバイスをもらったりしてみたりもするようになった。

そこで一つ必ず出てくるポイントが

何を撮るか よりも 何を撮らないか

ということだ。

「写真」の中に情報量が多すぎると中途半端な写真になってしまう。
自分は「これを撮影した」ということを言葉はなくても「写真」を通して想いを伝えられるか。
それを意識することで「写真」の質は変わってくるようだ。

そして、タイトルの通りこれは短歌にも現代ではTwitterには共通する部分でもあると思う。
限られた文字数の中で伝えたいことは山ほどある中でいったい何を「書かない」ようにするか。
実際、カメラマンをやっている友人は詩や短歌を通してそのような「引き算」の感覚を勉強していると言っていた。

この「引き算」の考え方は情報の「アウトプット」というところで考えてしまいやすいが、情報の「インプット」という側面でも最近非常に重要に感じる。

最近では各種SNSはじめ、多くのwebメディアが立ち上がり、またこのような形で大量のnoteも発信されている。自分が受け取る情報量は増えるばかりだ。クリップしている記事は日に日に積読されていっている。

こんな言葉を聞いたことがある。

読みたい本が多いことはつらい。なぜなら、死ぬまでに読める本の数なんてたかが知れている冊数なのだから、何か1冊読むたびに何か1冊を読まないことを選択しているのと同じだからだ。

この言葉を聞いてから、私はより「引き算」のインプットを心に感じている。何かを読むたびに何かの記事を読まない選択をしているのだと。

どんな基準でその情報をインプットすることを決めているのか。
いろんな人にその基準をあらためて聞いてみたいと思った。

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