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出来事の温度〜「かわいそうな自分、やめたら?」と言われて。

入院して1ヶ月ほどたったある日の夜、私の目の前には私がいた。

その夜は何をしても落ち着かなくて、消灯時間までまだ時間があったけれど、早めに部屋の電気を消して、「泣きつかれたら眠れるだろう」なんて考えながら自室で泣いていた。
過去の風景や出来事が、暗いベールをまとった映像となって、頭の中で上映されていた。



外の明かりが部屋を薄く照らす中、泣き疲れてふと顔を上げると、目の前には、体育座りで泣いている私がいた。

目の前にいる”私”は、今の私よりも少し幼く見えて、
「過去から、私は進んでいないのだろうな。」
なんて、ぼんやりと考えていた。

幼い私を眺めていると、ふと、あることを考えた。

「目の前の幼い私は、自分の中の”温度”に苦しんでいるのかもしれない。」

例えば、幸せな記憶、うれしかった、安心した、楽しかった記憶の中には、自分の温度と相手の温度の両方が残っている。

「大丈夫だからね。」と、手を握ってもらった。
「大好きだよ。」と、抱きしめてもらった。
「頑張ったね。」と、頭をなでてもらった。
「やったね。」と、ハイタッチをした。

相手の温度を感じることで、自分の心はふわっと温まり、その温かさが、記憶の要素として残り続けている。

それに対し、辛かった記憶には、相手の温度があまり残らない。

辛かった記憶、怖かった、嫌だった、苦しかった記憶の中には、自分の温度だけが、強く残りすぎているのだ。

目の前で繰り広げられる夫婦喧嘩を見て、恐怖で体の温度が下がっていく感覚。
授業中にあてられ、緊張し、手汗をかいているのに手は冷たくなっていく感覚。
間違いを笑われ、恥ずかしさで体が熱くなる感覚。

相手のことを考えている余裕なんてなくて、ましてや相手の温度を感じている余裕なんてなくて、自分の温度を感じるのに精一杯だった。

「辛い記憶には相手の温度が残っていない」
この考えがすべての記憶に当てはまるかと問われると、例外もあるように思う。

「異性に体に触れられて嫌だった」
というような、直に相手の温度を感じた出来事が嫌な記憶として残る場合、その記憶には嫌というほど相手の温度が残り続ける。

目の前の幼い私は、温度をまとった苦しい記憶に、支配されているのだろう。

もし辛かった記憶のすべてに相手の温度が残っていたら、どうだろう。

呪いのような言葉やよどんだ空気ではなく、相手の手のひらや拳が強く自分に触れ、直に相手の温度を感じていたなら。

私はきっと、勘違いをしていただろう。

相手の温度を感じられたことに安心感を覚え、出来事を愛情と捉え、歪んだ愛情の形を、本物だと信じて疑わない。そんな勘違い。


辛かった記憶の中に自分しかいない状態は、私には寂しすぎた。
一人分の温度で生きていけるほど、私は強くない。

だから私は、記憶の中にいる「自分」とは別の、「かわいそうな自分」を作った。

「かわいそうな自分」は、たくさんの大人を味方にしてくれた。
「かわいそう」は、哀れみや同情を生み出し、救済につながる。

寂しさは、「かわいそうな自分」が、紛らわせてくれた。



「かわいそうな自分作るの、やめたら?」

入院中看護師さんに言われたこの一言で、私は寂しさを感じた。

いつも味方でいてくれる「かわいそうな自分」は、私にとって大切な存在であり、パートナーであり、私の一部だったのだ。

でも。
もう大丈夫な気がする。

私は今、安全な場所にいる。
「かわいそうな自分」のおかげできっと、今の私がある。

もう、大丈夫だよ。
助けてくれて、ありがとうね。
私の背中を、これからは見守っていてほしいな。




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