救いを求める心と経験の因果関係についての拙文

 泥のような現実から目を背けるために、人間は皆一様に救いを求めるのではないだろうか。人生は思ったよりもうまくいかず、希望通りになることの方が少なく、願い事は叶わぬ方が多い。ある種、退屈であったり絶望を伴うような経験を経て人間は人格を構築していくのではないかと思う。失敗と成功の経験の振れ幅によって、またはその総量の対比によって人間性が決まっていくのだとしたら。そして、その絶対値によって救いを求める心が増幅していくと考えるならばどうだろう。

 知らぬことは願わない。経験したことのない、またそのもの自体を知らない場合、願い求める心がないとするならば、意志ある生物は誠に残酷である。栄華を誇ったものは、その後の枯れた人生に嫌気が差すのは世の理であるし、そう思う心は誰にも止めることはできない。そう思うということを理解していても尚、思うことを止めるのは不可能である。栄枯盛衰という言葉が廃れない理由である。
 
 清貧という言葉がある。清く、貧しくといった文字通りの意味であるが、なぜ貧しいことと清いことが類同するのだろうか。私は次のように考えた。貧しいとは、金銭的に裕福でないことだけではなく、知能や経験などにおいても一定のラインより劣っているということである。そして同時に、それら要素において裕福である経験をしたことがないということでもある。そのため、経験をしたことのない事象を願い、救いを求めることもしないだろう。これこそが、物欲や肉欲の関わりのない、それこそ清いの体現であるのだと思う。
 誰かよりも劣っていることが時に誰かに喜ばれ、自分を喜ばすことにも繋がるのだとしたら。
 
 ここで、個人的な話をしてみる。私は幼い頃から経験しないことには学べないような人間だった。稼働中の扇風機の隙間に小指を突っ込み部屋を血まみれにしないと”扇風機の隙間に指を入れてはいけない”ということもわからなかったし、公共料金の未払いを早急に解消しておかなかったために督促状が届き強制執行に至るまで、”お金を払わないことはいけないこと”ということも厳密には理解していなかった。
 そのため、何事も経験せねば語ることができないと考え、勇んでするようにしていた。それが、自分にとっての地獄を招いていたのではないかと考えた。
 私はこの二十数年で経験を積み重ね、時には幸福を、時には不幸を享受しながら生きてきた。経験することというのは、田舎育ちの特段取り柄のない私にも開かれていた。(実際は身分相応の経験の場が開かれているということであったが)
 そうして、私は誰よりも貪欲に幸福を求めるようになってしまったのではないか。経験したことのある幸福が再度訪れるように願う。経験したことのある不幸が再度訪れることに怯える。そのどちらもが救いを求める行為である。そうして私は救いを求めながら生活する外無くなってしまったのではないか。

 これは、私だけに該当する問題ではなく、序盤に記したように人間は皆一様に救いを求めている。現代社会では、マスメディアやインターネットから膨大な数の”幸福の経験”を見聞することができる。そんな情報過多な社会においては、自らの不幸を認め、他者の発信する幸福を求めざるを得ないのではないだろうか。
 現代人は皆、他者の”幸福”の知見を自らの経験に近いものとして得ることによって膨大な経験値を獲得し、そしてそれこそが自身の飢えを増幅させているのではないか。

(2024/04/03 日記より抜粋)


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