輪廻の風 3-10




城下町から少し離れた場所に、閑静な住宅街がある。

この場所はギリギリではあるが、幸いにも激戦地帯にはなっていなかった。

それでも住民達は、慌ただしく我先にと、それぞれの住居を後にし、遠くへ遠くへと避難していた。
そして、金目の物は抜かりなく持ち運んでいた。

そんな住宅街の一角に、カインとアマレット、そして産まれたての愛娘ルミノアの住む家がひっそりと佇んでいた。

レンガを基調としたごく普通の家だ。

メルローズ一家は他の住民の様に逃げ出さず、家に閉じこもっていた。

カインは一家の大黒柱として、家を、そして愛する妻と娘を護る為に、玄関前で仁王立ちをしていた。

「カイン…行かなくていいの?」
アマレットはすやすやと眠るルミノアを抱っこしながら、悲痛な表情を浮かべて言った。

「ああ。俺は絶対にこの場所を離れねえ。」
カインは、頑なにその場を離れようとしなかった。

少し離れているとはいえ、激戦区となっている王宮付近や城下町の状況はカインもアマレットも理解していた。

建築物が破壊される大きな音や戦士達の断末魔が、この場所まで響き渡っていたからだ。


「ねえ…ルミノアは私が絶対に護るから…カインも加勢してきた方が良いんじゃないの…?」

「馬鹿なこと言うな!私が護るだと!?連中はお前が敵うような相手じゃねえ!俺が留守の間にここまで侵攻してきたらどうすんだよ!」カインは、ついカッとなって怒鳴り声を上げてしまった。

スヤスヤ眠っていたルミノアはビックリして起きてしまい、ギャンギャンと泣き出した。

アマレットは、そんなルミノアを優しく宥めていた。

「悪い‥つい…。」

「ううん…私こそ、ごめん。」

「大丈夫だ。あいつらは必ず勝つ。」

カインとアマレットは、何も出来ない自分達をとても不甲斐なく感じていた。

ただひたすら、仲間達の勝利を祈ることしかできなかった。



王宮の目と鼻の先にあるバレラルク王国随一の繁華街、パニス町に不気味な女が現れた。

女の名はイル・ピケ。
黒髪のロングヘアで、病的とも言えるほど白い肌、そして幸の薄い顔立ちをしていた。
首には緋色の花が刻まれている。

「かかれー!」
武装した数十名の軍人達が、イル・ピケに向かって走り出した。

しかし軍人達は、イル・ピケの間合いへと入る前に続々とへたり込んでしまった。

へたり込んだ軍人達は、まるでこの世の全てに悲観しているかの様な表情を浮かべていた。

絶望感に苛まれて無気力状態に陥る者、シクシクと悲しそうにすすり泣く者等、様々な反応を見せていた。

しばらくすると、なんと彼らは次々に自ら命を絶ち始めた。

剣を握っていたのもは自らの腹を裂き、銃を持っていた者は自らの頭を撃ち抜く等して、まるで何かに伝染したかの様に続々と自殺を図り始めたのだ。

「お、おい!何してんだよお前ら!?」
「うわああぁぁぁ!!」
その様子を遠くで伺っていた軍人達は、そのあまりにも奇妙な光景に恐れをなして続々と逃げ出して行った。

イル・ピケは、微かに口角を上げてニヤリと笑いながら死体の山を眺めていた。

そんなイル・ピケの前に、マルジェラが立ちはだかった。

マルジェラは何も言葉を発さず、一目散にイル・ピケに斬りかかった。

イル・ピケは悠々と身を躱し、マルジェラに破壊光線と闇の力で創出した無数の黒い刃の様な物を放った。

マルジェラは、それらを剣の一振りで相殺した。

「鳥の天生士…マルジェラね。いきなり斬りかかるなんて…随分と無粋な男ね…。」

「挨拶の一つも無しに突然王国を蹂躙する貴様らに、礼節を持って接する義理はない。」
マルジェラは鬼気迫る表情で言った。

そして鳥の姿になり、両翼から無数の鋭利な羽根を放った。

その羽根は、まるで散弾銃の様にイル・ピケに襲い掛かった。

イル・ピケは、自身の目の前に黒い霧の様な壁を創り、防御した。

「ふふっ…流石に…強いわね。かつてバレラルク王国の歴代最強の戦士と謳われただけのことはあるわ…。隻腕でなければ…貴方も要警戒人物の1人に換算されていたでしょうね…。」イル・ピケが悍ましい顔つきでそう言い放つと、マルジェラは奇妙な心境に陥った。

目の前に倒すべき敵が立っていると言うのに、どういうわけか、突然サーッと戦意を喪失しまったのだ。

そればかりか、何事に対してもやる気が起きず、突如無気力状態に陥ってしまったのだ。

マルジェラは無意識に鳥化を解き、立っている事すら辛くなり、フラフラとし始めた。

「なんだこの感覚は…?お前…何をした?」
マルジェラはイル・ピケを睨みつけながらそう言ったが、イル・ピケは口角を上げてニヤリとしているだけで返答が無かった。

「さっき一部始終を見ていた。お前は…直接手を下さずに…人を殺せるのか?」
マルジェラは喋る気力すら湧かなかったが、何とか声を振り絞りながら尋ねた。

「そう…貴方は…今感じている"その感情"が何か…理解できないのね。まあ…貴方ほどの実力者なら…"その感情"とは無縁だと…思い込んでしまっても…仕方のないことだわ…。」

「…どういう意味だ?」

「私の首…見て…?この花の名前…知ってる?」
イル・ピケは、右手の人差し指で自身の首をチョンと触りながら尋ねた。

マルジェラは何も答える事が出来なかった。
それは、花の名前を知らなかったからではない。例え知っていたとしても、イル・ピケの質問に応答できる気力がなかったのだ。

「この花はね…"ゼラニウム"っていうの…。花言葉は…"憂鬱"。」
イル・ピケはニイッと不気味な笑みを浮かべながら言った。

「憂鬱…だと?」

「そう…。人の感情は…周りの人から影響を受けて左右されるって…聞いた事ない?元気な人の側に居れば…気持ちが昂ってより活発になったり…精神を病んでいる人の側にいれば…負のエネルギーを享受して…意気消沈する…。」

「お…俺が、お前のその鬱々としたオーラを受け取って、憂鬱な気分になっていると言いたいのか?そんな事…ありえない。」
マルジェラは、イル・ピケの台詞を杞憂と聞き捨てるかの様に言った。

するとイル・ピケは、微かに瞳孔を開き、首をカクンと右横に傾けた。

「貴方…憂鬱を甘く見ているわね?憂鬱は…人間を自ら死に至らせる…唯一の感情…。貴方は…確かに…強い。それ故…貴方は…自身の肉体の強さに絶対的な自信を持ち…精神までも強靭だと…信じて疑っていないでしょう…?それは…多大なる過信よ…。」

マルジェラは、自身の心が徐々に破壊されていくのを肌で感じ始めていた。

そして両膝をついてへたり込み、顔を下に向けてボーッとし始めた。

「確かに…肉体の強さと…精神の強さは…多少は比例する…。現に貴方…早々に自殺したこの雑兵達と違って…まだかろうじて…自分を保っていれてるものね…。でもね…鬱は…誰しもがなり得る心の病よ…。どれだけ強靭な肉体を持ち合わせていようと…例外なく患う…不治の病よ…。」

マルジェラは将帥の座に就いて今日まで、幾千もの死線を乗り越えてきた。

大陸戦争の時は、アズバールをはじめとした敵国の強敵を悉く圧倒していた。
決して驕り高ぶりはしなかったものの、確固たる絶対的な自信を持っていた。

そして、単独でユドラ帝国に4年間も潜入するという精神力までも兼ね備えていた。

だからこそ、そんな自分が憂鬱に心を支配される日が来るだなんて、夢にも思っていなかった。

マルジェラにはもう、顔を上げる気力すら残っていなかった。

「憂鬱は…ゆっくり…ゆっくり…じわじわと…心を蝕んでいく…。心の自壊は…生きている限り永遠に続く…。一度崩壊した精神は…2度と元には…戻らないのよ…。貴方はもう…立ち直ることは出来ない…。出口の無い…脱出不可能の暗闇の中を…永久に…彷徨い続けなさい…。」
イル・ピケはニタァと悍ましい表情を浮かべながらそう言って、前屈みになってマルジェラの顔を覗き込んだ。

「う…うおおおぉぉぉ!!」
マルジェラは、危うく愛剣で自身の腹部を斬り裂く所だった。
しかし、驚異的な精神力で無理矢理気力を湧き起こし、何とか持ち堪えた。

そして、眼前に立つイル・ピケに斬りかかった。
しかし残念なことに、その刃は届かなかった。

イル・ピケが右手人差し指から放った細長い黒き光線銃により、肺に風穴が空いてしまった。

「お見事…。」
イル・ピケは、マルジェラの精神力に敬意を表した。

そしてマルジェラの剣を奪い、不気味な笑顔を浮かべながら、一心不乱にマルジェラを滅多刺しにした。

一方その頃ルキフェル閣下は、王宮を目指しながら、ゆっくりと城下町を歩いていた。

その街並みは、すっかり変わり果ててしまっていた。

建築物は悉く破壊されており、瓦礫の山がいくつも出来上がっていた。

そして無数の死体が乱舞しており、とてもこの世の光景とは思えないほどに酷い有様だった。

まるで、阿鼻叫喚の地獄絵図の様だった。

「無常ですね。それにしても、ここまで手応えが無いとは…わざわざ私が出向くまでもなかったですね。」ルキフェル閣下は、ため息をつきながら独り言を呟いた。

すると突如、背後からヒンヤリと、季節外れの冷たい風が吹いた。

不審に思ったルキフェル閣下が背後を振り向くと、そこには2体の魔族の死体を右手一本で抱えているモスキーノの姿があった。

「3匹目、見ーつけたっ!」
頬に返り血を浴びたモスキーノは、まるで隠れん坊をして遊ぶ鬼役の子供の様に無邪気な笑顔を浮かべていた。

ルキフェル閣下は、冷静沈着な面持ちでモスキーノを凝視している。








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