輪廻の風 3-48



キリアンの能力に罹ったマルジェラ達は、為す術もなくただ呆然と立ち尽くしていた。

忘却とは恐ろしいもので、彼らは様々なことを忘れていった。

今、なぜ自分達が戦場へと出向いているのか。

つい最近まで共に笑い合い、今日まで苦楽を共にしてきた仲間達の顔や名前さえも忘れ、次第に自分自身が何者かさえも忘れていった。

極み付けには四肢の動かし方も忘れ、彼らは目を見開いたまま、目の前に広がる光景、その全てを疑問に感じ、ただ立ち尽くす以外何も出来なかった。

面白いことに、唯一呼吸だけは本能的に行われていた。

しかし、キリアンの能力の渦に一番遅く呑まれたサイゾーだけは、未だ辛うじて自分が何者なのかを薄らと覚えていたのだ。

しかし、四肢の動かし方を忘れていたため、目の前に倒すべき敵がいるというのに何も出来なかった。

ニタアと小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、嘲笑の眼差しを向けるキリアンに対して怒りが込み上げていたが、声の発し方を忘れていた為、ぶつけようのない怒りが身体中に溜まっていた。

そんな自分を情けなく、そしてこの上なく惨めに思っていた。

「イヒヒヒヒッ!お前らよく頑張ったな!褒めて遣わすぞ!だが、お前らの快進撃はこれにて終わりだ!安心しろ…痛みも苦しみも感じる間もなく、お前らの肉体を掻き消してやる!」

キリアンはそう言い終えるとマルジェラ達に両手を翳した。
両手からは凄まじい威力を秘めた黒い球体が出現した。

どうやら、一息にマルジェラ達を殺害しようという算段らしい。

サイゾーはキリアンの放った言葉を一言一句全て聞き取り、またその意味も現在の絶望的な状況も理解出来ていた。

しかしマルジェラもラベスタもエスタも、モエーネもジェシカも、もはや自分達が話していた言語すら忘れていたため、キリアンの言っている言葉は一切頭に入ってこず、理解も出来ていなかった。

「さあ…安らかに眠れ!」
キリアンは酷薄な表情でそう言い放ち、黒い球体をマルジェラ達に放とうとしたその時、思いがけない事態が起きた。

「うおりゃああああああっ!!」

キリアンは、背後から何者かが絶叫しながら自身に向かって突進してくる気配を感じた。

キリアンは思わず驚いてしまい、くるりと首を後ろへと向けた。

絶叫していた男はダルマインだった。
ダルマインの全身は冷や汗でベタベタとしており、顔は恐怖のあまりひどく歪んでいた。

そんな自分を奮い立たせるように、大口を開けて大声を発しながら、彼は勇敢にもキリアンに向かって猪突猛進し、その大きな図体から繰り出される強烈なタックルをキリアンに当てた。

キリアンは多少よろけた程度で済み、ほとんどダメージを受けていなかったが、黒い球体は不発に終わり、結果的にマルジェラ達はダルマインによって命を救われた。

キリアンはすぐに体勢を整え、憤怒の表情でダルマインの髪の毛を掴んだ。

「貴様あ…舐めた真似を!いつからそこに居た…小物すぎて気配すら感じなかったぞ!」

キリアンに睨まれ、ダルマインは「ぎゃおおおっ!お助けを!靴でも何でも舐めますから!どうかお許しください!」と大泣きしながら懇願した。

するとすぐにダルマインはキリアンの能力に罹り、「あれ…?俺は、誰だ!?」と言った。

この時キリアンは怒りのあまり、我を失ってしまっていた。
そのため、背後から迫り来るもう1人の男の存在に気が付けなかった。

その男はクマシスだった。

クマシスは「わああああーー!」と絶叫しながら、剣を両手で力一杯握りしめ、キリアンの背中を斬った。
その太刀筋は、信じ難いほどに大振りだった。

キリアンは一瞬呻き声をあげ、その場に片膝をついた。

サイゾーは、突然のクマシスの登場に驚きを隠せず、瞳孔を見開いていた。

なんとクマシスは、当初4000人いたバレラルクの戦闘員達に紛れ込み、どさくさに紛れて魔界城に突撃していたのだ。

そしてこっそりと人知れずサイゾーの後をつけ、戦いもせず、コソコソと隠れながらサイゾーに謝罪する機会をずっと窺っていたのだ。

そしてその流れでこの場面に遭遇し、意を決してサイゾー達のピンチに駆けつけたのだ。

「サイゾーさん!あの時逃げてごめん!見捨ててごめん!本当はこんな恐ろしい場所に来たくなかった…!だって怖いもん!世界が魔族達に支配されるなら、俺は喜んで魔族側に寝返る!だって命惜しいもん!死にたくないもん!でも…来ちゃった!どうしてもあの時のこと謝りたくて…来ちゃったよ!これで俺が殺されたらお前のせいだぞ馬鹿野郎ーー!!」

クマシスは顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、心の声を思う存分にぶち撒けた。

サイゾーは心底呆れる反面、まさかあの時自分を見捨てて逃げ出したクマシスが助けに来てくれたことを涙が出るほど嬉しく思っていた。

「貴様…許さん!絶対に許さん!」
キリアンは怒り狂い、クマシスの首を絞めようと右腕を振り上げた。

しかし、キリアンの右手がクマシスの首に到達するほんの寸前で、クマシスが「うわああ!」と怯えながら剣をビュンビュンと振り回し、それが見事に命中し、キリアンは胸部から腹部にかけて深い斬り傷を負ってしまった。

「うわああぁっ!何故だ!貴様、何故剣を振える!?貴様も既に、俺の術中だろ!?」

キリアンは患部から噴き出す血を両手で抑えながら、剣の扱い方や手足の動かし方を忘れていないクマシスに驚愕していた。

「さっきからずっと一部始終を見聞きしていた…花言葉は"忘却"だって?早い話、その能力は脳内からさまざまな記憶を抹消させることだよな?悪いが俺には効かない…!」

「効かないだと!?あり得ない!貴様何をした!?」
キリアンは、自慢の能力が一切クマシスに効いていない現実を受け入れきれず、困惑していた。

「脳が何かを忘れてもな…心が全てを覚えているんだよ!よく聞け!俺はな…心がガラス細工のように繊細なんだ!それ故、人一倍心が敏感なんだ!だから心で思ったこと感じたことを自然と声に出しちゃうんだ!つまり俺は…繊細さとクレバーさと臆病さが上手いこと混じり合い、心を体外へと剥き出しにさせながら服着て歩いているような人間なんだ!お前如きの能力で忘れられることなど…何も無い!!」

クマシスは大声で暴論ともとれる持論を展開した。

キリアンは初めて遭遇した目の前の天敵に絶句するばかりで、対処法がわからず混乱していた。

その隙をついたクマシスは、またもや大振りの剣技を炸裂させ、キリアンにトドメの一太刀をお見舞いした。

キリアンはひどく怯えた表情のまま絶命した。

キリアンが死ぬと、マルジェラ達にかけられた忘却の能力は瞬く間に解消され、彼らはすぐに我に返り、先ほどまでの出来事がまるで嘘のように、一気に全てを思い出した。

「いくら脳から記憶が奪われても…心のシャッターで映したメモリーは永久保存されるんだよ!分かったか!」
クマシスは得意げな表情で決め台詞をはいた。

魔界城4階での戦い、勝者クマシス。


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