『紙つなげ!』が伝える物語の力 - 追悼 佐々涼子さん
2011年3月11日、私は当時働いていた外資系企業の東京恵比寿のオフィスで会議をしていた。月に一度各スタッフ部門のリーダーが集い、情報共有や部署横断のプロジェクトの進捗や課題を討議する会議だった。そこで、総務部長が社員に配布している防災セットの使用期限などが把握できていないので、今度一斉に入れ替えをするという計画を共有した。棚卸しをするより全部入れ替えた方が手っ取り早いという判断だったんだろう。
そんな防災セットの入れ替えについて話をしている会議の最中に、あの大地震が日本を襲った。急いで全員床に据え付けられていると思われる大きな会議机の下に潜りこむ。が、床にビルトインされていると思われた重厚な机はその根拠のない予想を裏切るように床を滑り、部屋中を右に左にと移動するではないか。「お前が動くんかい!」と心の中で叫んだ。
私が会議中に地震に襲われている頃、私の両親は京都旅行からの帰路の新幹線に乗っていた。そして地震が発生した時に、あろうことか小田原近辺のトンネルの中を通過中であった。当然新幹線はトンネルの中で緊急停止。両親はあえなく、電気もつかない暗闇のトンネルに鎮座した新幹線の中で、度重なる余震に肝を冷やしながら数時間過ごすことになった。
あの大地震は多くの人の命と家族を奪い、そして大小の物語を残した。その大半の物語は当事者の心に止まるものばかりだが、福島原子力発電所の事故現場のようにノンフィクションという物語として世に発信されるものも稀にある。私の話など取るに足らぬ物語であるが、歴史の1ページとして世の中に記録を残し、人々に学びや教訓を残す物語もある。
『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』で語られる震災記録は、そんな稀有な物語の一つだ。
舞台は福島県石巻市の日本製紙石巻工場。震災前の生産量は年間100万トンにも及び日本の出版用紙を支えていると言っても過言ではない。そんな、石巻工場は東関東大震災で未曾有の被害を受け、一時期は工場再稼働が絶望的な状況に追い込まれる。本書は、石巻市のシンボル的存在である石巻工場を震災後半年以内に立ち上げることで地域復興のシンボルとしようとする工場員の奮闘を描いた渾身のノンフィクションだ。
地震の直撃と津波の発生、そして工場員の避難と石巻市の惨状を綴った冒頭部は、自らの震災体験と相まって息苦しい程のリアリティで描かれ、
工場再稼働に向けて、それぞれが色々な苦悩を抱えながらも、協力して数多の困難に立ち向かっていく工場員たちの姿が内面にまで肉薄して描写され、
美談だけでなく、震災直後に街で起きた窃盗・破壊行為、在日外国人に対する差別行為などの、人間の業にも目が向けられている、
そんな迫力ある筆致に引き込まれ、一気読みしてしまった。起きた事象を淡々と事実として語るというより、そこに携わった人にとことんフォーカスして、格好悪い部分や苦悩や葛藤までもが描かれているので、読者は登場人物に思いを馳せながら、物語の中に没入することができるのだろう。
また、舞台が日本製紙石巻工場というところが本好きの琴線に響く。本書にこんな一節が出てくる。
職人たちが愛情と畏怖をもって「紙」に接している姿を見て、背筋を伸ばさない本好きはいないだろう。彼らは本屋に行けば、自分が造った紙はひと目でわかると言う。自分が送り出した「紙」に本屋で出会うと、「ようっ!」と心の中でつぶやくというエピソードにも心が温まった。アメリカ生活が長くすっかり電子書籍生活が長くなってしまったが、日本への一時帰国では何度も書店に足を運ぶ。紙の本に感じる独特の魅力の理由の一つを本書は教えてくれた。今後も、一層心して紙の本に接しなければ。
なお、本書の筆者は『エンジェルフライト』の佐々涼子さん。作品中では飽くまで人にフォーカスしながらも、自分を押し出すことは決してない。佐々さんが本書の中でノンフィクションについて語る下記の箇所が印象的であった。
物語という大きな力の存在を信じ、能動的に書くのではなく、自分が物語の力によって書かされている、という謙虚な姿勢で物語に向き合うからこそ、佐々作品の登場人物は物語の中で思う存分に躍動するのだろう。
そんな佐々涼子さんは残念ながらこの9月頭に56歳の若さで亡くなられた。世の中に現れようとする力を持っていても描かれない無数の物語がある中、素晴らしい書き手が一人いなくなってしまったというのは本当に残念だ。佐々さんは本書の中で震災で亡くなった人に思いを馳せながらこんなこんな言葉を残している。
私も、彼女が物語の登場人物や彼女の紡いだ物語の読み手に託したものの大きさを考えている。心より御冥福をお祈りします。