犯人探しなんて無駄だし、他人を責めるなんて合理性に欠ける
職場内のトラブルに対して、いわゆる”犯人探し”が起きることがある。
しかし、私は犯人探しに加わることはしない。トラブルの当事者に話を聞くことはあるが、それは事実確認である。
犯人探しの多くは、この事実確認をしないまま憶測で「きっと✕✕さんがやったに違いない」みたいな話の広がり方をする。しかも、犯人として推定する本人には直接それを言うことはしない。だから一向に事実が見えてこなくなる。
このようになるのは、犯人探しというのは何かしらの問題を解決に導くために話を広げているのではなく、無関係な周囲の人たちがまるでワイド―ショーのコメンテータのように無責任なまま雑談をするからである。
つまり、犯人探しとは何の有益性もない、事実解明に何の寄与もしない、まったくもって合理的でないことなのだ。
だからこそ、私は職場における犯人探しが起きても無関心でいる。
経営や管理職の立場としてどうかと言われるかもしれないが、話がこじれない限りは放置している。
実際、放置しても大抵の場合は大きな問題にならない。あえて関係するとすれば、上記でもお伝えしたような事実確認くらいであり、あとは必要に応じて個々に指導をする。
職場でこのような態度でいると、ときどき周囲から人を責めない姿勢を褒められる。しかし、せっかく褒めていただいて何だが、これについては否定している。
別に私は聖人ではない。むしろ、物事を悲観的かつ捻じれた捉え方をすると自覚している。そして、自分にとって無駄なことや合理性に欠けることはしたくないと思っている。
その自分にとっての無駄や合理性に欠けることとして、憶測で誰かを犯人扱いしたり、他者を責めるという行為が該当しているだけである。
もしも、犯人探しをして事実が明らかになるならば、犯人探しという方法を積極的に取り入れるだろう。
しかし、犯人探しが功を奏することはない。
だから、犯人探しなんてしない。時間と労力の無駄だから。
また、もしも他者を責めることで、その当事者のあり方が改善するならば、頭ごなしにどんどん責めるだろう。
しかし、他者を責めたところでその人が成長することはない。
だから、他者を責めることはしない。時間と労力の無駄だから。
核心的な事実確認をしている人は、適切な結論を出すために色々な情報を集めたり検証する。犯人探しをするより、事実を明らかにするための行動をしている。
失敗やトラブルを引き起こした人の改善や成長を考えるならば、過ぎ去ったことを責めるよりも、次にどうすればいいかを共に考えるのが適切だ。
そのようなこともせずに、いつまでも憶測で語ったり責任を追求をしたりしても意味はない。
辛辣なことを言えば、犯人探しとか他人を責めてばかりいる人は、ハッキリ言えば ”暇” なんだと思う。
何かしらの出来事に対して、犯人探しなんて無駄なことはやめよう。
仮に失敗やトラブルの原因が分かっても、当事者を責めることはやめよう。
物事を良くするための鍵は、犯人探しや誰かを責めることには埋まっていいないのだから。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。