"やりたい"ではなく、"なりたい"を見つけたい
私は一介のWEBエンジニアで、会社に所属しながら仕事をしています。
先日、社内の勉強会で、"リーダーシップとは何か?リーダーとしてどうあるべきか?"を題材とした講義がありました。
勉強会の主催は、私が所属する会社に出向で来ている業務委託の社長。常にビジネスをどう作るのか、進めるのか、どうやって目的に向かってチームを動かすのかを考えている方です。(以外、Mさんと書きます。)
私はそんなMさんを尊敬しており、リーダーというものに対して明確な説明が私はできませんが
、常に目指すべき方向性について考えている、謙虚な姿勢でいつつも部下を動かしている姿は正しく"リーダー"足るものであると私は思っていました。
そんなMさんが、勉強会中に
"実は、僕はリーダーには向いているわけではないと思っている。だけど、リーダーとしての役割を演じている。"
と話していた。
社長という立場にあるということは、少なくとも自身の中で人を率いることに悦を見出していないと社長というキャリア選択はしないと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
Mさんがどんな心境でこの言葉を放ったのはわからない。でも、向いていないことがありつつも役割を全うする原動力がどこかにあるのだろう。
そう思った時、社会に出て大人になるということは、何かの役割を演じることなのかもしれないと思った。
業界、職種、会社、ポジション、年齢、経歴、スキル。これらに基づいて人は人を判断する。
昨今、やりたいこと関する話は多い。
やりたいことが見つからない。やりたいことを仕事にしよう。やりたいことがない人は勿体無い。やりたいことが見つけられないとずっと苦しいことに目を瞑りながら生きていくことになる。
やりたいことは衝動に近いと思う。何かをしている時間が楽しい、何かをしている時間が落ち着く。そんなことを僕らはやりたいこととして認知する。
もっと深く掘らないといけないと思う。
やりたいの中には、なりたい自分がいることを。
やりたいことは、なりたい自分に近づく、あるいははなりたい自分が取る行動でないんだろうか。
やりたいこととなりたい自分は繋がっている。社会に出ると、必ず何かを演じることになるのなら、やりたいことに拘泥するのは、やりたいことを見失うのではないだろうか?とも思う。
そして、なりたい自分は必ずこれまで誰かに影響されて形作られたものである。よく自分が嫌に感じる、ネガティブは自分がなりたい像を探すのに適しているというが、本当にそうだと思う。
話を戻すと、やりたいことはなりたいこと、なりたいというのは自分をその像として演じることだ。
社会は色々な枠組みでこういう人間でいろ!こんな人間にはなるな!と指示をしてくるが、自分のなりたい像を捉えて、求められている枠組みにハマるもしくは新しい枠組みを作ることがキャリアにおいて重要なのではないかと。
本当の自分はいないって聞いたことがあるけど、社会に求められてる自分じゃなくて、自分がなりたい自分のことが本当の自分だと思う。
何も考えてないと社会が作った枠に飲まれそうになるけど、なりたいは絶対自分の中にあるから、自分と仲良くしながらゆっくり探したい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?