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二人は不安なだけだった

『ときどき、「なぜ写真を撮るのか」と考え出しシャッターを押す手を止めることがある』と友達が話していた。

スナップとポートレートが主の写真のようだけれど、彼はいずれにおいてもその発作を起こすのかどうかはまでは知らない。少なくともプロカメラマンが写真を撮る姿を目の当たりにする時、彼のような発作は決して起こさないだろうなと思い返す、それはそもそも撮ること / 撮るものに対して不安があるから、ではないか。

だけれど、写真に限らず、満ち満ちた自信を持って対象に向かえられることの方が少ないのではと思い至る。例に漏れず私自身も、スナップの最中に、ぎろ、と被写体が視線を向けると、全身の汗腺が沸き立ち、不安と緊張が渦巻き、カメラから手を離してしまう。

どうしたことだろう、この時はさして不安もなかった。この時考えてみたのだけれど、人は物は常に脈打ち動き続けている。受動的な感性に陥る都会ではなおのことだが、それがために「止まっているもの」に対しては不安で思わず目を向けてしまう。
天高く聳えるビル、いつも通り過ぎる自動販売機、立ち止まり空を見上げるひと、電車で虚空を見つめるひと。そして、カメラを構えて瞬間を切り取ろうとするひと。

物事の在り方は視点のレイヤーにより多元的に存在するように、受動的な緊張や不安も恐ろしさも、旧制のレイヤーに束縛されているだけに過ぎなかったのかもしれない。
私たちは写真を撮っているのではなく、瞬間を切り取るためその瞬間に留まり「止まっているひと」。動く人は、瞬間に拘束されるのを恐れ、不安の瞳でこちらを見つめているだけだったのだ。恐れ合う被写体と撮影者。そこには、その双方が「見られている」という事実が隠されていた、ただそれだけだった。

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