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目的的な「自撮り」

書き物をするとどうも毎度堅苦しい文体になってしまいます、岸本です。
今日は自撮り / セルフィー / セルフポートレートについて考えてみました。

みなさんは、自撮り / セルフィーをやってみたことはありますか?
SNSのアイコンのため、とか、クレジットカードの認証のため、とか、僕の場合には必要に迫られて自撮りをしていました。ここ1年ちょっとの外出自粛期には家族や友人に元気な姿を見せたくて(勇気を振り絞って)自撮りを送ることが増えたようにもおもいます。

自撮り / セルフィーは、写真の世界では「セルフポートレート」という一つのカテゴリーとみなされています。それは、一番最初に作品作りをするならここだと、僕が決めていたものでもありました。
撮る前に、『なぜそれを撮るのか?』を考えてみたので、今回のnoteではそれをまとめています。今まで何気なく自撮りをしていたけど、その意味って何だろう、とか、セルフポートレートしてみたい!なんて方に読んでいただけたら嬉しいです✌️

◯ 全ての写真がなんらかの有意性をもつ

プロの撮る写真はもちろん、アマチュアカメラマン・ただの写真好き、その他どんな撮影者であれ、写真そのものには必ず何かしらの価値 / 意味があるとおもいます。

それは、iPhoneでしか撮ったことがない人の写真であろうと例外ではありません。以下に3つの例を挙げてみました。

① 待ち合わせ場所が分かりやすくなるよう今いる駅構内の写真を撮る
② 街を歩いていて、良いな、と思ったカフェの看板を撮る
③ テーブルに出された美味しそうな料理の写真を撮る

①は「情報伝達」、②では「記録」、③は記録の意も含みつつ誰かに見せてあげる意図がそこにあれば「コミュニケーション」とも捉えられる。
何気なく思い浮かべたたった3つの例でも、それぞれ異なる写真の価値 / 意味が見い出せます。人によって『いやそういうつもりでは…』と意を唱えることもあるでしょうが、その反駁こそが別の何かしらの価値 / 意味があることを暗示しています。

「情景を記録するという価値 / 意味」

"目的"的、つまりその行為を成すこと自体が目的になることもありますが、その目的の価値 / 意味が明瞭化されていなくて行為自体が重要だという場合でも「その人なりの撮影行為の価値 / 意味」があり、その過程から生まれる写真には上述したような普遍的有意性とは一線隔てた独自の「価値 / 意味」が必ずやあるはずです。

◯ 自撮りの価値 / 意味

全ての写真に価値があるという前提のもと、自撮りには一体どんな価値があるのでしょうか。

冒頭でお話しした僕の場合のように、外出自粛期間中に撮った自撮りの価値 / 意味は、家族や友人との「コミュニケーション」に他ならないでしょう。
自らの手で撮った自らの顔を、自ら相手に送る。その行為ひとつひとつが自主的 / 能動的あるがゆえ、明白に「近況を具体的に伝えたい」という意図があります。

「セルフポートレート 自宅にて」

では、誰に送るわけでもなく撮ったセルフィーはどうでしょうか。
自撮りという「記録」を通じて行われる、内的自己との「コミュニケーション」? …この考え方だといくばくか哲学味のある行為となり、そこに他者とのコミュニケーションの意図は見出しにくいですね。はたから見ると、双方向的なコミュニケーションというか、独白(モノローグ)な感じ。
セルフィーをソーシャルメディアにアップする前提で考えれば、全てが「コミュニケーション」に通じますが、その意図を考えるに『見られたい』『知ってもらいたい』という気持ちを介したコミュニケーションであると言え、それらは「自己顕示・承認欲求・ナルシズム」に到達することでしょう。

「自己顕示・承認欲求・ナルシズム」という言葉はどういうわけかネガティブに取られることが非常に多いのですが、これらは人間の気質や欲求の度合いに過ぎないものと考えています。「時間にルーズ・気配りが細やか・理論的・大食い・ショートスリーパー」とかと同列にあるもの。
とある写真家にセルフポートレートの相談をしたことがありました。その方は『ナルシズムのかけらもない私はセルフポートレートの経験がないんだ』と答えました。ここでは、その方がナルシズムに満ちた僕を揶揄しようとしたわけではなく単にその気質を備えていないというだけの事実が提示されていただけなのです。

◯ カメラの手軽さとセルフポートレートの関係

デジタルカメラを介した撮影行為には、一般に、直接作為者の「肉迫する要素」を取り込むことは難しい。

「肉迫する要素」とは、その人の手や指またその筋肉をもってして間接的に作品に与することです。
絵画を思い浮かべてみると、筆を持ち、何時間、何日間もの間カンバスに向かい色一つ一つを自ら生み出す姿が見えます。陶芸では、素材の土を濾過し粘土に変え、練り形造る工程はまさに肉体を駆使した芸術であり、創作にあたっての迫真的な姿勢が感じられます。はたまた、ダンスは己の体そのものをもってして表現を完成させます。

「街中のダンサー」

ここで、写真に立ち返ってみると、カメラという視覚の延長機器を用いながらも一枚の作品完成に至るにはただただシャッターボタンを押せばいいだけという驚異的なスピード感 / 手軽さを備えています。
もちろん、一連のテーマを備えたポートフォリオや展示を想定すればデジタルカメラの作品でも肉薄する要素が生じますし、極寒の山奥にまで出かけて撮った写真には有無をいわせない迫真さを孕んでいるでしょう。ただ、デジタルカメラ一般で言えば「ただシャッターを押すだけ」というあまりに簡単な工程であるという事実に変わりはありません。(RAW現像で自身の色合いを付す / フィルム現像で独自の濃淡を表すなど、厳密に言えば肉薄する要素は認められます)

さて、このような圧倒的な手軽さを備えた写真をもってして自身の姿を映し出すことには、前項で述べた自己顕示・承認欲求・ナルシズムに鑑みるに「手軽な内省」のいち手段だといえるでしょう。
セルフポートレート作家の佐藤麻優子氏の考えを見てみると、『なぜセルフポートレートを行うのか?』という問いに対しFASHIONSNAP.COMのインタビュー記事で次のように答えていました。

“自分の男女観はねじれてしまっているところがあるので、人に消費されるくらいなら自分のことは自分で好きなように消費してやる、というような感覚があるからです。”

FASHIONSNAP.COM
【引用】佐藤麻優子氏 公式HPより

セルフポートレートを通じた内省から、「人の消費」という観点を見出し作中に自分自身をプロットすることでそれを表現しているとみえます。

社会派アーティストのシンディ・シャーマン氏は、女性のアイデンティティを社会に、そして自分の中においても見出すべく "B級映画やフィルム・ノワールのヒロインに扮して撮影" した作品が名高く、写真以外にも映画監督や美術家としての側面も持ち合わせています。

【引用】Untitled #584, 2018 © 2020 Cindy Sherman

◯ 真に自由な撮影行為とその功罪

この二人、佐藤麻優子氏とシンディ・シャーマン氏に共通しているのは、「全てを一人で自由にこなしたい」ということです。
広告写真や芸術写真でも、ポートレートならば被写体が、被写体がいればスタイリストがいて、ライティングが必要であれば照明技師やカメラマンアシスタントもいて、というふうに、一人で全てをこなすことは考えにくい。

それを排してでも求める撮影行為の自由さは、セルフポートレートと向き合うにあたっては獲得が約束されています。シャッターを押すのも、被写体としてどう写るのかも、さらにはどう現像しどう作品として見立てるのかも、全てにおいて選択権が自分自身にあり、自由であり、それこそセルフポートレートの真価だと考えられます。
正気を失った振る舞いをしようが、肌身を晒そうが、自慰をしようが、本来人に見られることで湾曲してしまう行為何もかもが自身のあるがままの姿になりうる。

「見えざるものを見る」

ただし、「自由であるという恐怖」に耐える必要があるでしょう。
自分の姿をまじまじと自身に対し晒せば、とりわけコンプレックスを抱える人にとっては不安な疼痛に襲われます。まずは自分の足を、胴体を、顔を、肌身を、そして性器を、徐々にグロテスクな姿がカメラに映し出され、こうも奇怪な部材が胴体を中心に引っ付き私自身を成していることを知る。
既述の通り、どこを切り取るもどこを映し出すも自身の自由であるからこそ、それと向かい合うことこそが、自由の持つ恐怖だと感じます。

セルフポートレートの価値 / 意味について考えての自分なりの結論がこうも残酷だったとは思いもよらなかったけれども、「価値」という概念のいちビビジョンに過ぎないと思います。内省と自由と恐怖を孕んだセルフポートレート、なにやら新しいものが生み出せそうな予感がします。

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