帰還困難区域 - 残った場所で
帰還困難区域で
3連休ができて、その数週間前に福島の葛尾で「帰還困難区域」が解除された。
帰還困難区域とは年間の被ばく線量が一定値以上のエリアを指し、住居や立ち入りの制限を課せられる。ウェブニュースやソーシャルメディアでかつての住居者の声を聞くところによると、ようやく戻れるという安堵、加え、被ばく線や地域の再興などの不安が入り混じった複雑な心境のようだった。
2011年の東日本大震災から11年以上が経っている。その期間はあまりに長く、今の帰還困難区域に住んでいたほとんどの方が既に新天地での暮らしに馴染みきっているはずだ。
…自分の故郷に帰れなくなり、新たな住まいに安住できた頃、突然『戻れるようになりました』と言われたなら、自分だとどんな反応に出るだろう? そう考えた時、自分の生まれ育った場所の今の姿を、先ずは自分の目で確かめたいはずだと思った。だから、6月12日に福島県田村市の葛尾村野行地区で帰還困難区域解除のニュースを知った後直ぐ、そこへ向かおうと決めた。
▷ 「帰還困難区域」という表現
自分の足で、自分の目で
まずは、福島県の中核都市である郡山からベッドタウンの船引へ。葛尾村へは、船引からバスで1時間ほどで到着できた。
そこから野行地区へ向かうには、ただひたすらに歩いて進んでいった。単純に車で来ていなかったこともあったが、途中々々に見つける除染土壌の集積や住民の去った廃墟など、目に映るもの全てを可能な限り拾い集め写真に収めながら進みたかった。
▷ 町中に点在する被曝線の計測機
歩き続ける先で
話が脱線してしまった。そう、郡山市に着いた後、田村市の船引へ。そこで1泊、バスで葛尾村に向かった。
現地の方の話によると、船引は中核都市である郡山のベッドタウン的位置付けにあるそうで、駅から10分ほど離れたエリアには新興住宅が数多く立ち並んでいた。一方で駅近辺や船引北部の片曽根山近辺にはかねてから立ち並んでいたような平屋が目立つ。
駅からわずか徒歩5分ほどの距離にある、老夫婦が営むビジネスホテルに宿泊した。その真隣にある居酒屋で葛尾村についての情報を収集したところ、葛尾村中心部まではバスが通じているが先に帰還困難区域が解除された野行地区までは交通手段が一切なく、車でない限り歩いて行く他手立てがないそうだ。
翌日、早朝から三春の散策を経て、前日の情報を元に葛尾村中心地へと向かった。バスに揺られて1時間、葛尾村中心部に到着し休憩も兼ねて復興交流館あぜりあへ。ここでも改めて、野行地区へのルートや放射線による立ち入り可能エリアなどを尋ねた。
▷ 福島県民の底知れない親切心
葛尾村のバス停に到着し、あたりをしばらく散策した感想を一言で表せば「閑散」がぴったりとあてはまった。日曜というタイミングでもあったためか、村役場はもちろん村内唯一と言えそうな食堂も休業日で、通り過ぎる車のナンバーは郡山や福島など、県内観光ふうの人たちばかり。1時間ほどの散策で村民と言えなくもない風体の1人とすれ違った限りだった。
復興交流館あぜりあでコーヒーをいただいたのは12時頃で、会館スタッフの方から『野行を過ぎて浪江まで(徒歩で)行くなら、早い人なら次の日の朝方3時には着く』と教えていただいた。… ひと晩であっても歩き続けようと覚悟を決め、ようやくあぜりあを後にし、野行地区、そして浪江へと向かう。ルートは明快で、浪江三春線(県道50号線)をひたすらに真っ過ぐ歩いて行けばよかった。
1時間ほど歩くと、「注意|この先 帰還困難区域につき 通行制限中です」と書かれた看板が現れた。あくまで通行制限であるため、そのままどんどんと山奥へ進んでいく。
途中から、大きな絨毯に包まれたような広大な堆積場が目に入る。建設途中の施設か何かと思いつつも、それから2時間ばかり歩いたあたりで到着した野行地区でその実態がはっきりとした。
岸田首相が直接伝達し6月12日に一部で避難指示が解除された野行地区だが、除染土壌がたんまりと寄せられた場所で『居住再開』と言われても、村民を被曝線のもとに晒すだけではないのかと当初は当惑した。ところが、この現場を目にし、福島地域新聞で以下のようなコメントを見てからは考えが一変した。
現地の人にしか分からない心持ちだろう。
住まいの近くに除染土壌があることなどとうに理解している。そうした、現場の実情を踏まえたコメントだと受け取ると、本当に心からふるさとに戻りたかったのだということが伺える。
SNSでは、被曝線量の甘すぎる基準値から、村民を死に晒す行為だなどという非難がある。おそらくだが、今回の避難解除で再び居住しようと決めた4世帯8人はそんな点などとうに理解した上で、ある種の覚悟とふるさとへの愛情とを併せ持っての決断だったのだ。そう考えると、此度の政府・葛尾村の判断への批判は、付随的に再居住者への誹謗にもなりかねない。批判者らは、安全な住まいの中短絡的な考えのもとSNSで叫んでいるだけなのだろうから。
山の中で
批判者の声、再居住者の声、政府の声…。さまざまな方面からの声が頭の中で響き渡る中、野行地区を後にしさらに原発に近いエリアである浪江町方面へと向かった。
道のりは変わらず浪江三春線を行くだけだが、途中で葛尾村エリアの配電工事のための警備員らが立ち並ぶ地点にたどり着いた。葛尾のバス停からここまででゆうに4時間は歩いたが、ここまで住民はおろか動物の死骸としかすれ違わなかったため、俄かに安堵感を抱いた。『どちらまで行かれるんです?この先(配電工事で)行き止まりですけど』突然そう声をかけられ、反射的に『浪江です、はい、分かっています』と答えた。
警備員を背にしばらく歩いた後、冷静になってスマホで葛尾村の配電工事情報や通行可能エリアを調べた。2011年の震災と原発の被曝線問題で長らく住居のできない環境下であったことから、2018年以後葛尾創生電力による再生エネルギーを生み出すスマートコミュニティ計画(※)が推進されている。おそらくだが、こうした取り組みから山間部でありながらもスムーズなデータ通信ができたのだろう。
しばらくは歩いて進めそうだが、どうもその先の浪江進入地点で立ち往生しそうな予感はした。わずか1時間半後その不安は的中し、歩行者・二輪車での立ち入りは許可されていない、とその先の警備員に止められてしまった。… 半日ほどかけて歩いた道を戻るには遅すぎる時間で、もどったその先のエリアである葛尾村落合にも営業中の宿泊先はなかった。落合から他地区に向かうバスも早くも最終便がなくなっており、いよいよ山の中で野宿かと腹を括った。
出張だったり、工事現場作業員風の運転手を乗せた車がちらほら通ってはいたため、突拍子もないがヒッチハイクを始めた。山口、大阪、東京でヒッチハイクの経験があったが、いずれの場所であっても長い時にはドライバーをキャッチするのに一時間以上かかることもあった。が、幸運なことに開始からわずか15分ほど、5台もすれ違わないうちに乗車させていただける方に巡り合えた。
寡黙な運転手だった。相模からの出張で、年に1度は福島の相馬に主張があるという。お子さんのためか、車のキーには似つかわしくない可愛らしいキャラクターのキーホルダーがぶら下がっていて、後部席は家族で出かける時のためのレジャー用品でいっぱいだった。到着地点は浪江町と伝えていたが、浪江のどのあたりだ、と聞かれて口籠った。歩行者の通過できないエリアを通りさえすれば後はどこでも良かったからだ。
『とりあえず通過さえできたら、あとは(運転手を)遠回りさせることにならない地点であればどこでも大丈夫です』
そう伝えると、随分と私が疲れた顔をしていたからか、浪江駅近くのパーキングエリアにまで連れて行って下さった。その頃にはすでに日も暮れ始め、持ち合わせのフィルムだと光量が足りなっていたこともあり1時間ほど浪江町西部の加倉を散策、双葉町近くに見つけた格安ビジネスホテルに落ち着いた。
国道459号線に沿い葛尾方面に戻る道を歩いていると、巡回警備員に声をかけられ『帰還困難区域だから』という理由でそれ以上先に進むことをやんわりと制止させられた。
海のそばで
6月20日。この日は浪江町と双葉町をつなぐ請戸浜を見回した。このエリアは 15.5m もの津波に見舞われ、約6㎢ が浸水被害を受けたという。600棟が流失、推定28.9万t の災害廃棄物が残された。(※)
11年と3ヶ月の歳月が経った今でさえ、ここに来るとその爪痕がありありとうかがえた。通り過ぎるのは建設会社のトラックだけで、人も軒並み建設作業員の方々だ。果たしてここに本当に家屋が、ひとが住んでいたのだろうかとさえ思わされる。
大地震とそれによる津波の被害にとどまらず、ここ双葉では人の手によって生み出されたものが人の暮らしを脅かす存在と化した、今もなお。歩く最中、どれほどの時間をかければ震災前の姿を取り戻せるのか、たくさんの人が住みたいと思えるような町になるのか、自分ひとりで、それもふらっと訪れただけの自分がそんなことを考えたところで、事実何にもならないということは明白なのに。
鳥取県出身の私の実家にも、歩いてわずか5分ほどの場所に鳥取砂丘と日本海が広がっていて、潮の存在にはどこで見ても親しさ覚える。しかし、ここ中浜ではそれよりもなぜか恐怖心が勝っていた。慣れ親しんだ暮らし。当たり前の日常。家、道、人。学校、会社、漁港、スーパー、食堂。そうしたものを、全てを一瞬で失わせる脅威の真隣にいると感じさせられるからだろうか。
残った場所で
中浜を南下するとその先には福島原子力発電所に至る。ただ当然ながらそのエリアへの一般立ち入りは叶わず。ぐるりとUターンし請戸漁港方面へ戻り、津波被害にあったそのままの姿を残した震災遺構の1つである請戸小学校を訪れた。
津波被害当時のままの姿が可能な限り保存され、入館からほどなくして言葉にならない感情が押し寄せてきた。それよりなぜか、「どのように津波が押し寄せてきて、どんな圧力のかかり方を経てこうした被害となったのか」という理屈めいた考えがばかりがよぎってきた。あまりの情報量の多さから何か考えを導かなくてはと迫られた結果、そうした、非人間的で科学的、表層的なことばかりが頭の中を占めてしまった。
もっとシンプルな、悲惨だ、とか、かわいそうだ、とか、そうした感情を持てなかった。むしろ、そうした感想をいだく余裕すら持ち合わせていなかったのかもしれない。それほどに私にとってはインパクトの強い風景の連続だったから。別館には請戸の歴史・文化を紹介する展示もあった。月並みな表現かもしれないが、その貴重さが身に染みて感じられた分だけ失われたものの大きさが重く思われた。
請戸小学校を後にし、双葉駅へと向かった。建設現場と土埃を舞わせるトラックの往来の中を過ぎ、人気の一切ない町を歩く。
いつもいつもその行為の意味を考え、理由に固執している私は、珍しくこの瞬間にそれを深く求めなかった。
『なぜ今回福島に来たのか』『なぜ帰還困難区域を訪れようと思ったのか』『なぜこんな凄惨な出来事が起こったのか』『なぜ原子力発電が続いているのか』
…考えが及ばない部分ばかりということもあるが、そう深く考え込むまでもなく震災から11年と3ヶ月経った帰還困難区域の現状をまのあたりにしたということが既に重大な事実認識だった。「福島、その先の環境へ。」次世代会議 でも震災の記憶を風化させないことが何より重要だということに触れられていた。先走りすぎる前に、まずその事実を自身も含め多くの人の記憶の中に留めておくこと、ひいてはその現場を訪れ事実を知っておくことが欠かせない。
高校2年生の時に、2年8組の男子生徒が突然死した。
朝、なかなか部屋から出てこない彼を母親が起こしに行くと、深い眠りの中にいるかのようだったという。その時にはすでに心肺停止の状態で亡くなっていたそう。同学年の彼の存在はもちろん知っていたが、廊下で立ち話した程度の記憶しかなく、どんな性格でどんな科目が得意で、彼女がいるのかどうかとか、そんなことしか知らなかった。担任の先生は教室の朝礼でクラスのみんなに彼が亡くなったことを告げた。『彼がいたという記憶を持ち続けることが、最も彼のためになる。』と。
その言葉通り、彼の存在は忘れないようにしている。顔立ちや背丈、性格とか、断片的ではあるけれど、先生があの朝礼で話したことが事実だと思っているから。そこに理由や根拠はないし、覚えておいてためになることがあるかどうかなんて考えるまでもない。ただ、記憶に留めておくということ。
人はどうしても忘れてしまう生き物だから、時折頭の中に彼の面立ちを浮かべる。彼の存在したという事実を確認するために。
同じように、震災があったのだという事実を確認するために。今回福島を訪れ得られたものは、それだけで十分だったのだ。
▷ 参考リンク
朝日新聞DIGITAL
帰還困難区域の避難指示、大熊町で30日解除 原発立地自治体で初
福島県庁公式ホームページ
ふくしま復興ステーション
福島県放射能測定マップ
中村隆市ブログ「風の便り」
原発事故後、東日本で大人にも甲状腺がん増加
チェルノブイリ法は1ミリから被ばく対策 日本は20ミリまで安全
福島県 環境放射能監視 テレメータシステム
ガンマ線量率地図で見る
双葉町ホームページ
中野地区復興産業拠点
葛尾村公式ホームページ
復興ニュース
環境省公式ホームページ
第2章 放射線による被ばく 2.5 身の回りの放射線
東京新聞
福島帰還困難区域で初の居住再開
時事ドットコムニュース
復興拠点の避難指示解除 帰還困難区域、初の居住再開―再建に課題も・福島県葛尾村
福島民友新聞 みんゆうnet
【復興拠点解除・葛尾】復興住宅「ついのすみか」 古里の家は解体
CNN.co.jp
福島の村に住民が帰還 11年ぶり避難指示解除
浪江町公式ホームページ
教育委員会事務局
復興庁 福島県 浪江町「浪江町 住民意向調査」
報告書
日本経済新聞
再エネ拡大、自前で電柱・電線 福島県葛尾村の課題
▷ 掲載写真とその取り扱いについて
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?