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おもいで春夏秋冬


 くどうれいんさんのエッセイを、『うたうおばけ』『コーヒーにミルクを注ぐような愛』『虎のたましい人魚の涙』と3冊立て続けに読みました。同世代として共感するところが多いのはもちろん、わたしのなかのあの頃を思い出してしんみりしたりクスッと笑ったり。著者は作品の中のエッセイで「花を贈るのが好き」と語っているけれど、こちらが言葉の花束を受け取ったような暖かい気持ちになった。エッセイのような物語のような読み心地で、いろんな感情が引き出されて、目の前の今日という日々が、ぐっと鮮やかに思える素敵な読書体験で、またひとり好きな作家さんを増やしてしまったな…というきもちです。

 何本ものエッセイの中で、好きだなあと思える作品はいくつもあったんだけれど、小学生の頃,雪を食べた日のエッセイを読んで、私の中にも強く残っている、あの頃の季節の思い出を、何となく文字にしてみたくて、noteをひらく。もしかしたら読んでくださったあなたにとっても、似たような思い出があったらいいな、と思いながら。三連休の真ん中、じめじめと気持ちが暗くなりそうですが、よろしくお付き合いください。

あのころ
 人一倍引っ込み思案で恥ずかしがり屋でおとなしい子どもだったと記憶している。保育園ではよく、教室のすみで写し絵をたのしんでいた。同級生が園庭で三輪車に早々と乗れるようになっているのを時々眺め、竹馬が乗れるようになったのはクラスで1番遅かった。〇〇くんがすき!と大きい声で言っている友達に自身の好きな人も聞かれ、よくわからなかったけれど適当に男の子の名前を答えたら、あれよあれよと私がその男の子のことを好きなのだということにされてしまい、女というのは怖いものだと幼心によく学んだものだった。兄弟が多く決して裕福な家庭ではなくて、友達の家のリカちゃん人形やピコや自販機のおもちゃがどうしようもなく羨ましかったけど、私はそれでも母が読んでくれる絵本と、着せてくれる水色と白の水玉ワンピースと、真っ黒になるまで一緒に寝た白トトロみたいな猫のぬいぐるみが好きだった。

小学生の春
 校庭にたくさんの桜が咲く小学校だった。年に一回桜の下でブルーシートをしいて、「お花見給食」をした。桜の花の良さなんて1ミリもわかっていないだろう子どもたちが。その日の給食は、私の苦手なオレンジパンだった。給食は苦手でも8割は食べなさいという厳しい先生の下、どんどん給食を食べ終わり校庭で遊びまわるクラスメイトを見ながら、私は先生といつまでももっちゃもっちゃと大嫌いなオレンジパンを口の中で転がしていた。わたしはその先生がお肉が苦手で、給食の時生徒に黙ってこっそりお肉を戻しているのを知っていて、やろうと思えば先生を糾弾することだってできたわけだけど、けれどそんなことは口が裂けてもにはできない、そういう子どもだった。

 1年生と6年生、2年生と5年生、3年生と4年生でペアを組む,仲良し学級というシステムがあった。3月、今の6年生とペアが解消する日、6年生から1年生に、写真付きのお手紙が送られた。友達のお手紙にはカラフルな文章がたくさん書かれていたのに、私のお手紙には写真だけで特に書いてなかった。今になって私が6年生の立場を思えば、何を書いたらいいかわからないものだが、私は悲しかった。かなしくて、母に、お手紙もらったよ!と言えなくて、精一杯6年生みたいな文字を真似したつもりでお手紙を偽造して、母に見せた。「良かったねえ!」と喜んでくれた。きっと母は多分、全部気づいていただろう。春はそういう、ちょっと苦い記憶の季節だ。

小学生の夏
 夏休み、ラジオ体操の朝。まだ半袖では少しだけ寒い。会場の公民館までの道中にいるよその家の猫を構う。小学校のプールに行く昼。夏休みのくせに、ほぼ強制の学校プール。薄暗くいつも塩素くさいコンクリート作りの更衣室。延々と遊んだ「お煎餅が焼けたかなゲーム」。プールバッグの紐をサッカー選手みたいにおでこにひっかけて、両手が空いたからめっちゃ楽だぜ!と、帰りの坂道にぼとぼとと落ちている毛虫を避けながらあるいた。土手に生えているスイバの茎を吸っては、「酸っぱい…」と眉を顰めた夏。あのころ、母がお昼に作ってくれているワンプレートが楽しみだった。おにぎりと、冷凍食品のナポリタン。お子様ランチみたいでわくわくした。夏休みの夜、年に一度の灯籠流し。本来の意味も知らずに、夏祭りの気持ちで出かけていた。最初こそ意気揚々と出かけていくのに、まるで休日の竹下通りみたいな、身動きが取れないほどの人混みを潜り抜けながらどうにか家まで帰ってきて、家の縁側で食べるかき氷みたいなアイスの方が好きだった。

小学生の秋
 実家は兼業農家で、干し柿を作っているが、私は前述の通りドライフルーツが嫌いであり、柿もそんなに好きではなかった。干し柿も同様に苦手だった。干し柿農家なのに。秋に収穫した柿を干して、燻蒸して粉を吹かせて、ほぞを切り、日に日に寒くなる季節を感じながら、出荷用の柿を詰めていく。両親が柿につきっきりになる季節、母の隣で音読の宿題をよくやった。手伝うことはしないけど、その作業を見ているのは好きだった。できあがった干し柿を年明けに食べる、中に入っていたタネの数の多さで、その年の金運を占うらしい。干し柿が嫌いだった私は、その土俵にも上がれないのであった。もしかしたらこの頃からすでに、こうして細々と暮らす私の未来は予言されていたのかもしれない、トホホ。

小学生の冬
 まだ私の地元でもよく雪が降る頃だった。霜柱をざくざくと踏んで歩いたり、家の庭に鎌倉や滑り台を作ったり、家の裏の坂道でそりすべりをしたりして遊んだ。学校の行き道で雪をシャクシャクと食べては土の味がした。濡れるからビニールの手袋をして行きなさいよと言われたのに頑なに毛糸の手袋を選んだせいで手が真っ赤になった。学校に着くなり、ストーブの前ではみんなの手袋が色とりどり並んで乾かされていた。
実家の掘り炬燵に、8人家族が一辺ふたりずつでぎゅうぎゅう入って過ごした。みかんと甘く漬けた梅とを食べながら雪が降るのを眺めた。

 普段から早寝だった小学生の私は、世の中がミレニアムになるその年初めて、0時過ぎまで起きていることを許された。はじめて時計が夜中零時を過ぎたのを見て、飛び跳ねて喜んだ。私もまた一歩大人の仲間入りをした気がした。そのまま父が近くの神社に連れて行ってくれて、甘酒をもらった。甘酒がどうにもおいしく飲めなくて、これは「酒」と名のつくものだから、まだまだ大人の味なのかもしれない、と思った冬。

中学生の夏
 吹奏楽コンクール。練習量も技術も、今思い返せば他の学校の皆さんの足元にも及ばないことなんてよくわかっていた。それでも、わたしの気持ちだけは本気だった。上に行きたかった。同じ中学生がとんでもない演奏をたくさんしている、もっと上の世界を見たかった。へらへらと結果を受け止めている周囲の気持ちが全然わからなくて、悔しくて悔しくて泣いた。気持ちさえあれば、どこまででもいけると思っていたけど、重い楽器を背負って歩く学校までの登り坂は果てしなくて、何度も心が折れそうになった。クーラーのない体育館の窓を全開にして何時間も楽器を吹いて、外で楽しそうに水遊びをしている美術部のメンバーをみながら、今一度「がんばろう」と思った。

中学生の秋
 盲腸になった。正確にいうと、その前から四半期に一度のペースで地を這うような腹痛に襲われており、その度病院にかかっては点滴を打って散らしていた。本来なら盲腸になるとそれは立ち上がれないほどの痛みらしいのだが、辛うじて立ち上がって病院まで歩くことのできていた私はお爺ちゃんドクターから何と我慢強い娘か,言われたものである。いよいよ腹痛を繰り返すので見かねた両親が別の医者にかかってみるかという話になり受診したところ、あれよあれよと総合病院に運ばれそのまま盲腸摘出の手術を受けることになるのである。後日談、私はこの時点で下手したら命を落とす危険性があったらしい。いまでこその笑い話だが、よく立って歩いていたものである。人生初めての入院生活。母が差し入れで買ってきた「言いまつがい」の本をよみ、腹を抱えて笑い…たいのに術後の傷に障るので笑うことができないという日々を過ごした。入院生活中日、巷でまことしやかに「大地震が来る」と囁かれており、1人で病院で寝ることがあまりにも心細かった私は、家にいる小学生の妹を差し置いて、「今夜は病院に泊まってほしい」と母にせがんだものだった。退院したその日に見たネットニュースで、似た様な時期に中山優馬さんも虫垂炎にかかっており、勝手に誇らしげな気持ちになった記憶がある。中3で盲腸をとってしまって以降,もうあの時の痛みを思い出すことはできなくなり、それでもちろん良いのだが、少しだけ思い出してみたい気持ちになる。

高校生の春
 新年度しばらくの間、校舎にただよう新しいゴムの匂いが好きだった。私の高校は上履きとしてゴム草履みたいなもの(簡単にいうとほぼ便所スリッパ)を使っており、新入生が入ってくる春は、新入生の上履きの香りが学校中にしているのである。その度に、今年も春が来たんだなあと実感していた。そういえばあの頃、進んでいた子たちの中では、懇意の後輩や先輩とその上履きを片足ずつ交換するということが流行っていた。学年ごろ色が違うので、左右で違う色の上履きを履くことが一種のステータスだったのである。そう考えると,あの頃というのは何だかよくわからないものが流行ったりその人のステータスになったりしたものだ。教科書をしまうクリアバッグとか、リプトンの500ml紙パックとか、PUMAのジャージとか。あれって全国区的な流行りだったんだろうか?

高校生の夏
 やっぱり吹奏楽コンクール。いつだって本気だった。自分たちがどこまでいけるか、身の程もある程度わかっていた。それでもみんながある程度同じ志でいてくれたから、私はうんと燃えていた。恥ずかしげもなく、青春だったと言えると思う。朝から晩まで練習して、授業中は少し居眠りをして、長期休みの課題は適当に片付けた。たくさんの演奏を聴いてたくさんの音楽に触れて、あまりにも充実した日々だった。部活や学校生活の悩みを、学校から徒歩何十分もかかるガストで、ポテトとドリンクバーを片手に何時間も、まるで大人になったような気持ちで語り合った。だけどわたしたちは親の車のお迎えがなければ家に帰ることさえできないような田舎に住んでいて、そういう意味ではどうしようもなく子どもだったのだ。

高校生の冬
 アンサンブルコンクール。私の高校生活は、本当に部活一色だった。部屋数が足りないため近くの公民館を借りており、学校まで戻る道すがら、流れ星を見たことがあった。本当に一筋だけ。奇跡みたいな時間だった。冬の日、冷たい金管楽器を体に抱えながら、なんどもマウスピースに温かい息を吹き込んだ。小学生の頃あんなに遊んだ雪はもう、電車を止める邪魔のものになっていた。田舎の電車は、雪の重みで木が倒れたり、野獣と衝突したりして泊まったり遅延したりしていた。大人たちはみんな車の運転が怖いと嘆くし、実際私も大人になって、雪道で運転することの煩わしさや怖さを何度も感じたものだった。これが大人になってしまうってことなんだろうか?それでも、肌が痛いとおもうほどキンキンに冷える地元の冬のことが、私は好きだ。ここ数年は割と暖かい冬が続いてしまっているけれども、今年の冬はどうなるだろう。

そして、高校生の春
 無事に大学に進学することになった。実家から通える範疇にまともな大学すらない田舎は、高校を卒業したら同級生の9割が自ずと実家を出ることになる。東京に行く子、名古屋に行く子,大阪に行く子、北海道に行く子…。そういうものだとわかっていて、当時はそれが当たり前のことだったけれど、大人になって、あの歳で家を出なくてもいい子が世の中にはたくさんいるという当たり前のことを知って、少しだけやるせなくなったりもした。嵐の「season」や「still…」を聴きながら、散々センチメンタルを拗らせたものである。
 私は東京に出ることになった。同級生のあの子もあの子も東京に行くんだから、寂しくはなかったはずだった。東京には何でも楽しいことがあって、これからたくさん楽しいことが経験できるんだというわくわくに満ちていた。引っ越しの手伝いに来てくれていた両親は、入学式が終わったら地元に帰ることになっていた。入学式の次の日、大学から家に帰ってきて、初めてひとりぼっちを感じた日、私は寂しくて泣いた。大丈夫だと思っていたのに、これから先が不安でたまらなかった。

 それから私は折りに触れて何度も、自分の生活が変わるたび、さくらももこ先生の「ひとりになった日」を読み返して泣いている。私が選んだ道なのだからと、不安になって何度も自分を慰めながら泣いた。
 『虎のたましい人魚の涙』の中に、何度も私の背中を撫でてくれた「ひとりになった日」を思わせる一節があって、今回はこんなふうに昔の記憶をするするとほどきたい気分になったのです。こうして文字に起こしてみると、書いたことも書けないようなことも、いつか文字にしてみたいと思っていたことで、当時の記憶が鮮やかに甦ってきて、良いきっかけだったともおもえる。もうすこしクスッと笑えるポイントを作りたかったのだけど、何だかしんみりしてしまったな。拙文ですが、ご清聴いただきありがとうございました。わたしもいつか、もっと素敵なエッセイみたいなものを書けるようになりたいな〜〜。日々精進。良い週末をお過ごしください〜

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