僕が生きるために「パチスロ」を選んだ理由と辞めた理由

2014年7月、パチンコ屋へ行った。人生の新しいチャレンジだった。
新しい戦場であり、新しい職場だった。望んで行ったような、そうするしか無かったような、どこか導かれるようにそれは始まった。

終わりの始まり

2013年11月中旬から下旬の午前、いつものように起きてシャワーを浴び、着替えて車に乗り会社へ向かった。

気付けば会社には行っていなかった現実があった。

どこかのスーパーかホームセンターの駐車場だった。なぜそこに居るのか、なぜ会社に行っていないのか。理由はわからなかった。
そうだったという事実しかなかった。

やがて夜になり、駐車場が閉まるのを察した自分は移動の選択を強いられた。仕方なしに当てもなく車を走らせた。どこかも分からない道の駅に辿り着いた。そこに車を停めた理由はトイレがあると思ったからだ。
トイレに行って用を足し案内板を見ると、どうやらこの道の駅の駐車場は24時間365日開放しているようだ。人の気配もほとんどない。
周りは車中泊用にカスタムしたような車がいくつか見えた。静かで自然に囲まれた道の駅。トイレも清潔で広く、数百円で入れる温泉もあった。

自分はその場所を妙に気に入った。

夜のため、僅かな明かりからしか全体は見えなかったため、施設の全容は把握出来なかったがそこには水がありトイレがあるのは既に確認している。もうそれで充分だった。
運転席に座り何をするわけでもなく目を閉じ外の気配を感じていた。夜中になり寒さが締め付けてくる。北海道の11月の夜中の気温は1度か2度といった程度だ。暖房を点けたかったが他の車中泊ユーザーへ迷惑になるためエンジンはかけられない。仕方がないので我慢した。
今思えば当時乗っていた車はハイブリッドカーのためエンジン音はほぼ無いので、駐車場の端とかにいればエンジンをかけても迷惑はなかったであろう。
寒さはつらかったが誰も干渉してこない車の運転席という空間はとても落ち着いた。

気付けば2週間が経過した。

道の駅で起きた初日、スマホには大量の着信履歴とメールが来ていた。当然だ。自分は会社の社長であり従業員を雇用している立場だ。連絡が無いほうが難しいくらいだ。
前日の途中から既に何度も電話は来ていた。わずらわしくてミュートにしていたせいで気付かなかっただけである。それから数時間後にはスマホの充電は無くなっていた。
飲み物やパンなどは道の駅の売店で購入出来た。
ここに来てから毎日、目を閉じながら外の気配を感じていた。
2週間が経過し家に帰る決断をしたのは、帰らなくても帰るのも恐怖があったがそのときは帰らない恐怖のがほうが大きかったのだろう。

家に帰った。スマホを充電しシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら従業員にどう謝るか何度もシミュレーションした。
いや正確には車の運転席にいたときから何度もしていた。謝ろう、そして会社に行こうと決めた。だから家に帰った。
シャワーから出て家のソファに座りながら着信履歴を見ていた。見知らぬ番号からも沢山電話が来ている。
取引先?番号登録していない従業員からか?スマホが記録出来る限界まで着信履歴があった。
何か会社で自分がいないと解決出来ないトラブルがあったのではないかと頭に過ぎった。無性に怖くなった。
怖くなってスマホの電源を切ってしまった。

自分は道の駅に戻ってしまった。

逃げるように道の駅に向かった。つい数週間前には存在さえも知らなかった近隣の村の道の駅。
ここにしか安全はない。ここ以外は危険だ。道の駅で運転席に座り目を閉じ外の気配を感じる。
この行為以外は何もやる気が起きなかった。人の気配を感じれば少しだけうずくまって隠れれば良い。そうすれば誰にも見られない。見つからない。
この世で自分だけが存在しているような空間であり聖域でもあり、誰も自分を侵食してこない。そんな安心を得られる唯一の場所でも毎日の夜中の寒さはつらかった。
既に12月に入り気温はマイナスへ突入するのが日課になった。夜の寒さが明日も来るのかと思うと憂鬱になる。
逃げるように舞い戻ったせいで着込んでくるとか冷静な選択はしていなかった。次に家に帰ったときに温かい服装に着替えてから道の駅に戻ってこようなどと考えたりをした。

そんな日々が8ヶ月目に突入した。

1月から3月の寒さは強烈だった。日によってはマイナス20度を下回り肺の中から凍るような感覚が当たり前だった。いくら車の中といえども暖房も点けずに良く生きられたものだ。
逆に5月以降は暑さで倒れそうだった。車の中は太陽光を集約していつも灼熱だった。窓を開けると聖域が無くなってしまうような恐怖が自分を支配していたため、仕方なしに密閉していたのが暑さに拍車をかけた。

6月に帰宅したときに今の状況に変化が必要になった。
そもそもこんな生活をしてよい訳がなかった。逃げ続け甘え続けていた。

逃げられない場面が来た。

突きつけられた現実

帰宅して見慣れない請求書を見た。いや正確には見たことはあるのだがここにあるのが見慣れなかったのだ。取引先からの請求書だ。

この時、全てを察した。

自分の会社は、自分の店は数ヶ月前に無くなっていたのだろう。名義上はあっても現実には存在しない。
取引先との契約書の緊急連絡先などは自分の自宅を記載していた。この請求書が来たということは事務所がなくなったのだろう。恐る恐る中身を見た。支払いの明細には数カ月分の滞納履歴があり、支払い督促の内容が同封されていた。

スタッフに大変なことをしてしまった。取り返しの付かないことをしてしまった。気付いていた。気付いてはいたが何とかなるかもしれないという、とんでもない無責任な思考に逃げていた。
実際、半年が経過してもこのような請求書などは来ておらず何とかなっていたのではないかと思えていた。

そんな訳がなかった。

スタッフの給与は売上から確保出来たのだろうか。今、どうしているのだろうか。聞きたかった。確認したかった。謝りたかった。
でも、出来なかった。怖かった。そもそも自分自身どうして急にこんな事になってしまったのかも説明出来ない。
自分はある日突然何から逃げて来たのだろうか。何にも答えられない。
謝るだけでもするべきだった。

その日から道の駅へ行くことはなくなった。

数日が経過して新たに取引先から請求書が来た。銀行だ。
正確には銀行から新たに債権主になった保証協会からだった。請求書以外に呼び出しの通知も同封されていた。
自分はスタッフのみならず取引先まで多大な迷惑をかけてしまった。どうしたものか。何と言って謝罪すべきか。まず電話だ。
電話するには何かしら意向も伝えなければ相手は納得しないだろう。

(そもそも喋れるのか・・・?)

この9ヶ月のあいだ、会話、メールなど一切しなかった。
声を出すという広義では売店やコンビニでぼそぼそと商品の購入などで喋ることはあった。
それでも話して伝えるしかない。間違いなく支払い日の確約の返事を欲しいはずだ。それくらいは今の自分でも判断出来る。
しかし現金がない。財布にあった数万円が全てだ。

自分が最初に電話したのは消費者金融だった。

法人設立してから数カ月後、万が一のために消費者金融複数社の口座は作っていたのだ。一度も利用していないまっさらな状態のため、利用限度額が少なかった記憶があった。
事務的な対応のオペレーター相手なら喋れるのではないかと思い意を決して電話をかけた。予想通り形式的な質問で導いてくれるため、すんなりとことは進んだ。
自分が確認したかったのは利用限度額についてだった。A社は10万円でB社は30万円だった。
しかしB社のオペレーターが年収の3分の1まで融資出来る現行制度に変わったことを教えてくれ、直近の給与明細を送ってくれと言われた。支払いはされていないけど発生はしている給与明細を送った。
自分の月額の役員報酬は40万円に設定されていたので480万円の3分の1、160万円まで融資出来るとのことだ。2つの会社から来た請求書の合計額は約400万円だった。足りない。
しかしこの160万という現金のおかげで2社に電話出来る勇気が湧いた。
それでも怖かった、人と話すのが。意思のある人間と話すのを想像するだけで震えた。いくつもの不安がよぎる。
取引している会社はこの2社どころではない。まだまだ来るだろう。どれだけの会社とどれだけの人とやり取りが必要なのか。どれだけのお金が必要なのか。ほど近い未来に絶望した。
それでも、もう逃げられない。2社に電話をした。

結果として呆れるくらいスムーズに終わった。最初に来た請求書の会社の金額は数十万だったこともあり、月内に支払うということを伝えたらそれで終わりだった。
保証協会は会社に来てくれとのことで日付を伝えるだけだった。

保証協会はその道のプロであり用意周到に準備していたのか出際良く話しをしてきた。まず、来月裁判をしますとのことだった。自分の資産の差し押さえの権利を取得する裁判だった。
自分は頷いているだけだった。裁判費用がこっち負担になるとあったので金額だけ確認した。
数十万の追加の出費だ。今後支払いが遅れた場合に差し押さえするだけなので、普通に払ってくれれば問題ないとのことだった。
しかし遅延損害金に延滞金と元々の金額とは大きく変わっていた。
毎月15万程度の支払いがそこで結ばれた。

帰宅してから考えた。
お金をどうやって稼ぐかを。
会話というほどのものではなかったが人に言われて少し冷静になれたかもしれない。
突き付きられた現実が冷静にさせてくれたかもしれない。
まずは客観的に現状を冷静に振り返った。何度も考えようとしては逃げていたことだ。

何かしらの精神的病気になっているのであろうというのは既に理解していた。何の病気かは分からない、病院に行こうとも思わない。人が怖いというのだけは解っている。
恐らく、原因はあの年の春にあったことだろう。既に終わったことだ。
気にしないように蓋をしていたはずだったが、制御出来ていなかったようで今回のような惨事を生んでしまった。人と接するのだけは避けながら稼がなくてはならない。

そこでルールを決めた

1.自分のからだひとつで稼げる仕事
2.日本中どこでも出来る仕事
3.会話が必要のない仕事
4.即日現金として得られる仕事
5.初期費用の掛からない仕事
6.手取りで月収50万円以上の仕事
7.所得申告をしないで済む仕事

最後の「7.所得申告をしないで済む仕事」というのは自分でもなぜそういう判断をしたのか未だわからないのだが、少しでも支払いに回したいという意向だったのであろう。
それなら手取りの稼ぎを増やせば良いのだが、当時は上記のようなルールにした。
正直に言うと犯罪しか思いつかなかった。それでも何日も考えに考えた。
何日か経過して突然、それは頭に過ぎった。

「パチンコ屋で勝ち続ければ良いんだ」

全てのルールに当てはまる。店に人間は沢山いるが直接的な接点は少ないはずだ。
この世に「パチプロ」と呼ばれる存在があるのは知っている。いるという以上は出来ないことはない。
どうやったらパチンコ屋で勝てるかを調べることにした。

そこから2年と8ヶ月という膨大なトライアンドエラーの旅は始まる。

パチンコは技術介入要素が多く、最初から手を出せるものではなかった。
しかしパチスロは違った。もともと何度かパチスロはしたことがあるのでイメージは出来ていた。
色々と調べていくうちにパチスロの技術介入はほぼ皆無と言ってもおかしくなかった。
機種ごとに座るルールを決めそのロジックの中で優先度の高い台だけを消化していけば良いといういわゆる期待値稼働に徹すれば勝てる。

台ごとの知識の準備が終わると今度は店選びに注力した。
当時この地域は等価交換で営業時間は9時から22時50分までと全国のどこよりも環境が良かった。
ある一定以上の規模の店が2件以上近い距離で営業している条件の店を探した。
これは1つの店に固執せず他の店にいつでもいける環境にしておきたいという為だった。沢山の候補はあった。その中から知り合いと合う可能性の低い地域を選定した。

2つの支払いの取り付け後も沢山の業者から督促の請求書や電話が来た。
特に税金(消費税や法人税など)の未納と加算税や延滞税などは数百万円もあった。
これで合計750万円程度の支払いが必要となっていた。本当に沢山の人や企業に迷惑をかけてしまった。
消費者金融からの160万はあっという間に色々な方面への初回の支払いとして消えていた。

借金が出来たからパチンコ屋へ行く。ふざけた話しだが既に決めたことだ。
これしかないと思ったのだ。
やるしかない、やらなければ変わらない。

いよいよデビューだ。

始動

2014年7月、パチンコ屋へ行った。

この日は打たずに眺めるだけに徹する予定だった。
しかし打てる台があった。見つけてしまった。迷いもせず、すんなりとデビュー戦は始まった。
デビュー相手は化物語だ。
打ち初めてすぐに緊張が全身を走った。この1万円はどこから出てきた1万円なんだ。そう消費者金融からだ。
人に迷惑をかけ、企業に迷惑をかけながら消費者金融からの借金でパチスロを打つ。
何度も家で自分に言い聞かせた。ギャンブルではなく仕事としてやるのだと。強い恐怖が痛烈に押し寄せてきたが「冷静に冷静にと・・・」自分に言い聞かせながら消化していった。
結果は12,000円の投資で回収が500枚程度。デビュー戦は期待とは裏腹にやや負けが先行した。
何度も店を徘徊したがこの日は他に打てる台が見つからず、この店(A店)と隣の店(B店)で会員用貯玉カードを作成して帰宅した。

時刻は夕方前くらい。
もともと下見と、沢山の人がいる前に行くことが出来るかというのが一番の確認事項だったのでこの日の目的は達成した。
遊戯者の中にチラホラ耳栓を着けている人がいて必要な物と思い帰宅前にドラッグストアで購入したので早速装着を試してみた。
ある程度、遮音性もありこれなら更に他人がいることへの怖さが軽減出来るような気がした。

本番は明日だ。鉄拳3rdの導入日だ。
A店もB店も導入するのは確認出来ていたので、翌日の朝一はこの機種と決めていた。
勝てる機種なのは間違いない。

翌日、またパチンコ屋へ行った。
狙い通りの機種が取れ(検定待ち抽選で当選)見事、数百枚分の勝ちが生まれた。新しい仕事の初めての報酬だった。
前日とトータルすると大した数字ではないが嬉しかった。出来るかもしれない。やれるかもしれないと思った。
この日は他の台も数台こなして終わった。

デビューから1ヶ月が経過した。トータルの勝ち(※注釈)は60万円を超えた。移動時間などを含まない台を打っていた時間だけの時給は3,800円程度だった。
※(パチンコ屋で遊戯した金額と景品交換所で買取して貰った金額の差のことを今後も自分は定義とします。)
アナザーゴッドハーデスと鉄拳3rd、北斗転生が主な主戦機だった。夕方からはAタイプにも挑戦した。
毎日パチンコ屋へ行った。打ちながらスマホで勉強した。行けなかった店のデータは有料会員サービスの機能で全てチェックした。毎日数千台のチェックはした。全ての稼働した台のデータは分単位で計測していた。寝るのは朝4時か5時になってしまったし運動不足の自分にはとてもつらかった。それでもやる気は1ミリも落ちなかった。月に1度や2度過去の取引先に支払い計画の提出などでパチンコ屋に行けない時間はあったが、誰よりもパチンコ屋に居たような気がした。

2014年8月中旬、気付けばロシアのサハリンにいた。

決意

なぜ行ったのか、なぜ導かれたのか何度考えても思い出せない。
当時のスロットに関する内容は詳細な記憶があるのだが(もしかしたら記録があるから記憶があるのかもしれないが)、気付けばサハリンにいた。
稚内から船で2時間半くらいかけて着いた。
ビザ無しで72時間滞在が可能だった。
期間中、噴水のある場所のベンチに良く座っていた。
考えていた内容は本当にこんな事で良いのだろうかという自問自答だった。

本当にパチスロを仕事で良いのか。
この1ヶ月何度も頭をよぎりながら時間がなく避けていた内容だった。
また、スタッフへの迷惑、取引先への迷惑と謝ってすむ問題ではないが後ろめたさからどうにか謝罪できないかと毎日考えていた。そんな事を考えていながら一向に謝罪していない自分がいた。
幸い1ヶ月で60万円の手取りの所得が生まれた。これは後に分かるのだが期待値の上振れが起きていたお陰だった。
稼ぎとしては申し分ない。疲労や拘束時間は多いが、これは前職時代から似たようなものだったので気にならなかった。
年齢は既に30歳だった。何度も考えたが代替案が無かった。
仕方がなかった、自分の巻いた種だ。そんな感情が頭を埋め尽くした。
やるしかない、やらなければ変わらない。
滞在2日目、サハリンでパチプロとして生きていく決意をした。何があっても3年はやる。3年で返済してやるとプランを組んだ。誰かと喋ることはないので職種を名乗る機会はないがプロとして仕事としてパチンコ屋へ行くことに迷いは無くなった。

帰国してユニクロで安いジャケットを数着購入した。パチンコ屋へはジャケット着用で行くことにした。
平日週5日稼働で土日は身体のメンテナンスと5日間の振り返りに費やすことにした。
職業パチプロ。始めて1ヶ月の新米だがプロ意識は誰にも負けない立ち回りを始めた。

それから2年が経過した。

争いは憎しみと武器しか生まない

消費税の増税により交換率の変更、5.5号機のリリースなど稼働時間中の時給は除々に落ちていた。
返済は400万円程度まで返すことが出来た。延滞金などの都合で少し金額が増えちょうど折返しといったところだった。
3年で返済出来るような計算が経ったパチプロ1年目だったのだが、あと2年は必要なペースだった。

既に身体は限界だった。肩がまともに上がらない、回らない。
帰宅後にオリジナルで考えた毎日のアイシングなどでケアはしている。
2年の間に最短の動作、負担の少ない押し方など何度も研究してこれ以上ないくらいまで仕上げた。
それでも身体は悲鳴をあげていた。稼働前に痛み止めの摂取、ボルタレンなどの塗り薬は必須だった。

相変わらず誰とも会話はまだしていない。メールも誰ともしていない。
2年と9ヶ月の間に独り言が増えた。
周りが自分の現状を知らないだろうからフェアではないと思って、自分も知人のSNS等は一切見なかった。
既に過去の取引先や知人から電話が来たりすることはほとんど無かった。
昔からの友人の一人が毎月のようにメールをくれるのが嬉しかった。
返事はしなかった。あと2年。返済したら必ずみんなに謝罪しに行くと当時は決めていた。

既にこの生活も3年目に突入するにあたり精神的な病というのは無くなっていた。
毎日の小さな目標の達成の積み重ねが自分に自信をつけてくれていた。それでも誰かと会話をしたりはしなかった。

ユニクロのジャケットは夏冬仕様合わせて10着以上になっていた。
納税していない自分は毎日募金をするようになった、これは現在も継続で2,000日以上継続している。

この頃は2013年にあった心の病と違い、仕事に関しての感情の起伏は少なかった。自分が決めたルーティーンとロジックの中にさえいれば結果は着いてくると半ば楽観的でもあった。
勝っても負けても何も思わなかった。日々の解析は怠らなかったが、嬉しさも悲しさもなかった。
職業パチプロに完全になっていた。

しかし対人間に関しては絶望を感じていた。パチンコ屋というのは楽しんで遊戯している人なんて本当に僅かにしかいない空間であり争いや破壊行為をよく目撃した。
自分はホール全体をよく観察していたのと、日々パチンコ屋にいたのでそれなりに色々と見たくないものも見た。
所詮は修羅の世界、遊びで来ても長期的な多幸感を得られるようなロジックにパチスロはなっていないのである。
歪な男女の関係としか思えない2人組や朝9時から社用車で来店する会社員。子供を車に置いてホールで遊んでいる夫婦。
自分の手の届く範囲は助けられる。警備員に車のナンバーを伝えるくらいは出来る。会話というほどではないが声は当然出せるんだから。

世直しなんて偉そうなことが将来出来たらいいなってよく頭の中で考えるようになった。間違いは誰にでもある。直せば良いんだ。
所詮、手の届く範囲までしか出来ない。それでいいんじゃないかなって思っていた。後悔はもうしたくない。
何度もそんなことは思っても、自分が行っている現実はパチスロということを痛感させられる毎日だった。
何も変わらない毎日、正確には過去を精算する毎日。本当に将来なんて自分が考えて良いのだろうかと自己否定する毎日でもあった。

再開

2016年12月、いつもメールをくれる友人からまたメールが来た。

「元気かーい?」
いつもこのような内容だった。

「元気かどうかはわからないけど生きてるよ、メールありがとう」
と、気付いたら返事をしていた。

まだまだ道の途中だった、返済もまだ1年以上かかる。
何も精算しきれていないのに、気付いたら自分で決めたルールを破って返事をしていた。

それからメールで何度かやり取りした。

数日後、彼は東京から自分に会いに来てくれた。クリスマスくらいの時期だった。
彼は中学校の同級生、東京でECサイト運営やサイト制作などの会社を経営している社長だ。3年間メールをくれていた友人だ。実家に自分の安否を確認しに行ったりもしてくれていたとのことだった。
その日は沢山喋った。3年分とまでは行かないが沢山喋った。パチスロ稼働のデータや記録も見せた。とても関心してくれた。
とても嬉しくて嬉しいという感情を表現したかったのだが、上手くいかず沢山喋って元気な姿を見せることしか出来なかった。不器用になったものだ。姿かたちは変化しても、ただ不思議と中学生の頃と変わらない空気感で最後はいられたような気がした。

それから彼はそのまま年末年始休暇も兼ねて彼の実家に滞在していた。

自分は今までどおりパチプロの仕事。この仕事はやらない限りお金が入らないのでやるしかないのだ。

仕事が終わってから何度か食事に行ったりした。
初売りセールも一緒に行った。3年以上街中に行ったりしていないので、人混みの中を歩いたりする行為に不安があった。パチンコ屋で人が沢山いるのは問題ないのだが街中にいくことを想像すると緊張した。結果はそんなに問題はなかった。ちょっと吐き気がした程度である。逃げ出してどこかに隠れるような自分はもう無かった。

その後、彼に東京で一緒に働かないかと提案された。

現状、会社の業績は良くないとのこと。従業員雇用を行わないで社長1人の会社になっていたようだ。

返事は一瞬だった。2017年の9月に東京に引っ越して会社の業績をすぐに伸ばしてやると伝えた。その時期を指定したのはサハリンで決意した3年は続けるというどうでも良い自分ルールのせいだった。
また支払いはまだまだ300万円程度あったのも理由であった。

友人から上司、社長になる予定の彼から前倒しで4月に東京に来てくれないかと言われたのは2017年の3月だった。

計画は目安でしかない

漠然と人生のどこかで一度で良いから東京で働いてみたい、そんな事を考えていた若かりし自分を思い出した。

既に33歳になっていた自分が東京でIT系か。たった一回の返事、3年間で1度の会話からこうなるのも何かの縁か。そもそも同級生だし縁は繋がり続けていたのかかもしれない。いや自分は繋がりを切ろうとしたにも関わらず繋ぎ止めてくれていたのは友人だ、感謝しかない。
感謝は仕事で返すしかない。

年が明け2017年になった。やはりどう考えても9月までに返済を終わらせるのは難しい。理由としてさらに稼働時給は落ちていたからだ。また業界のルール変更などで春以降更に落ちるのが見込まれていた。既に稼働量を増やすというのはシミュレーションに組み込んでいた。1日も休まずやっても到底届かない。

各所に連絡して支払いの配分を変えて貰った。東京引越し後は給料の中から返済を行っていくしかないと踏んだからである。
幸い、自分の一番都合の良い条件に合わせて頂けてこれならいけそうだと思える内容になった。最悪バイトでも何でもするしかない。バイトするくらいなら友人の会社のために使いたいのが本望ではあるのだが。

1月からはガムシャラにスロットを打った。肩の心配なんてない。9月になればもう打たないんだから、それまで使えれば良いだけなのだから。開店から閉店まで毎日パチンコ屋へ足を運んだ。
他の専業軍団は自分が土日稼働しないことを知っていたので自分のマイホールへは平日は軍団は2名、土日は4名のような割り振りだったのだが、自分が土日稼働をしだしてからとても嫌そうな顔で睨んでくるようになった。それも8月までだ。

しかしながら計算通り行かないのが人生。友人から4月に東京に来てくれないかと連絡が来たのが2017年3月。1ヶ月も猶予は無かった。
会社が限界なのだろう、それでも断れる理由はあった。
断る気持ちは微塵もなかったが。

3月28日をパチプロとしての最後の職務として全うし4月1日から東京に住むことにした。毎月の給与からと消費者金融に返済した160万をもう一度使って各所に支払いをしていくことにした。利息の分、支払いは増えてしまうがそんなことはどうでも良かった。

突然の送別会

3月28日いつものパチンコ屋で数台を消化して、貯玉カードを全て精算してカードの解約を済ませた。あまり行っていない店も含めて5軒くらい回って全ての貯玉カードを精算した。メモしていた内容より20万円ほど多く保有していた。嬉しい誤算でありあってはならないミスでもあった。

夕方になりいつもの店に戻って、この2年と9ヶ月間ライバルとしてしのぎを削った年齢が同じくらいの通称ヨシキに声をかけた。今日で引退することと東京に行くことを伝えた。この期間中、何度も顔を合わせ同じレベルで戦ってきた相手。彼は自分より勝っていたであろう。自分は返済があり贅沢は出来なかったが彼はどうだったのだろうか。外見などは質素ではあるが清潔感のある身なりだった。彼もまた理由があってパチプロだったのかもしれない。自分がいなくなればもっと稼げることになるだろう。

その時だった、誰かに呼ばれた気がした。

パチンコ屋はBGMがうるさいので気の所為かなと思ったのだが、呼ばれた気がした方向を見ると手を振っている男性がいる。

地元の友人が2人組でそこにいた。この約3年間誰かに会うこともなく稼働していたのだが引退日に出くわすとは珍しいこともあるものだ。
10年ぶりくらいの再開だった。訳あって友人側が自分と会えない境遇だった期間もあり、とても仲が良かったのだが10年ぶりくらいになってしまった。

友人は自分は失踪したものだと思っていたらしい。食事に誘われたのでそこからほど近い場所で3人で食事をした。凄く自分のこの数年のことを聞きたがっていたので、嘘偽りなく話すことを宣言した。凄く長くなるとも注意した。また4日後に東京へ引っ越すことを最初に説明すると、友人が呼べるだけ他の友人達へ今から声を掛けるとのことだった。
1時間後くらいには地元の友人が10人以上集まってくれた。本当に嬉しかった。何にもしてないのに、迷惑しかかけていないのに本当に嬉しかった。
この3年半が報われた気がした。まだまだ精算しきっていないのにゴールに到達したような気分になり泣かないのを我慢するのが大変だった。

そこから長い独演会は始まった。独演会が終わると、皆パチスロが好きなようでどうやったら勝てるのか聞いてきた。何なら自分の思い出話しより聞いてきた。伝えられることは伝えたが内容を聞いてみんなガッカリしてしまったようだった。
そう簡単に気軽に勝てるわけでは無いのです。自分はギャンブルが嫌いだった。だからこそ仕事として割り切って続けられたと思っている。好きこそ物の上手なれとはいうが、甘えを完全に捨てられないと勝ち続けることは不可能な仕事だと痛感はしていた。

朝まで飲んだ。二次会三次会と重ねる内に人数は更に増えていった。途中参加の人は何が何だかわからずだけど、それでもとにかく笑って騒いでくれた。酒を飲んだのも、カラオケを歌ったのも3年半ぶりだ。
それまであった普通のことが帰ってきた。何を一人で抱えて苦しんでいたのだろう。さっさと友人に相談すれば良かったんだ。
でも無理だった。自分の意思と関わらずに気付いたら道の駅に着いていたのだから。

東京へ引っ越す前日の2017年3月31日、あの村の道の駅へ行くことにした。

いざ、東京へ

道の駅に着いた、当時と変わらないような全然違うような不思議な感覚だった。見える景色が変わったのだろうか。その日は晴れていたがまだまだ雪は残っていた。
最後には来たのは2014年6月だった。暑い車内の仲でただただ運転席に座っていた時期だ。8ヶ月という期間の大半の時間をここにいたが、自分はこの村について何も知らなかった。
冬はワカサギ釣りが人気の地域で豊富な野菜や果物を生産しているとのことだった。
今思うと、長期に渡り車を停めていて気味が悪かったろうなと照れくさくなる。通報もされず寛容な対応をしてくれたスタッフさんに感謝。
何か用事があるわけで来たのではなかった。もう一度、見ておきたかった。

明日には東京暮らしだ。緊急だから友人に家を決めておいて貰った。自分の状況は包み隠さず伝えてある。築50年くらいの物件だそうだ。上等だ、オンボロなんて文句言える状況じゃない。
住所は六本木というところ。聞いたことがある地名で何となく良かった。
テレビは24歳のときに捨てた。東京は詳しくないからそこらは全部友人に任せた。

この2017年3月段階で解決していない事、精算していないこと、いくらでもあった。
まだまだ道の途中である。全部解決するにはあと少しの時間が必要だった。

さて、東京行ってどうやって会社の立て直しを図るか。プランなんてない。事前に沢山の業界の知識について教えてくれたけど全然わからない。でも大丈夫。今よりもうちょっと頑張ればきっと出来るはずだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?