デザインをカタカナでごまかす
デザインの小難しさ
こちらで改めて学修していると、デザインがいかに小難しい領域になってきているかを感じる。無論、それは全般的に悪いことではないと思う。なぜならデザイン(もしくはデザイナー)という領域定義は、その流動性こそが取り柄であるし、なにより優れたモノ・サービス・システムを社会や地球に放り込むことはなかなかに込み入った案件だからである。またおそらく他の学問や領域も、知識や社会が高度化するなかで、同様にどんどんと複雑になっているはずだ。
デザインに限った話でいえば、近年実践や議論が集まる用語の得体の知れなさは計り知れない。ヒューマンセンタードデザイン、インタラクションデザイン、サービスデザイン、システミックデザイン、マルチスピーシーズなど色々ある。
これは”横文字を使うコンサルはいけすかないよな”といった類の話ではない。単純に難しいねというなんともテキトーな観察である。
カタカナ翻訳の限界
デザイン領域における設計論や倫理論がカタカナ語、つまり外来語として広まることは、特に1980年代のヒューマンセンタードデザイン以降、非常にメジャーにな輸入方法だったと思える。無論これらは舶来品ではあるためカタカナであるべきかもしれないが、ヒューマンセンタードデザインを「人間中心設計」という物々しい固有語の組み合わせで表現した事例もなくはない。
ことデザインという用語も、それ自体がカタカナなのは特筆すべきご愛嬌である。デザインに「意匠」や「設計」という一般固有語を当てがうこともあるが、それはいささか狭小すぎる定義だという批判もあり、いまやカタカナの「デザイン」が日本語でも優勢に思える。
ただ個人的に思うのは、こうしたカタカナでデザイン方法論や倫理が享受される限界点を日本であまり真面目に議論したことはあまりないということだ。ちなみにこうしたカタカナ語を介して、これらの概念学習や実践をしてきたことは、英語環境でデザイン実践や研究をする上で便利だ。なぜなら、ただイントネーションや発音を適切なものにすれば、会話が成立するからである。
ただカタカナでデザイン方法論や倫理論を輸入し、理解・伝播・更新する際の厄介な点は、以下のようなものが考えつく。
その分野背景がない人には容易く通じない
→相手にいけすかない印象を与えてしまう
→親族や友人など身近な人に「結局なにをしているのか」を説明できない
→製品やサービスを世に出すための協力や共感が得られないその用語が生まれた文脈が欠落しやすくなる
→用語の誤用・偏った解釈、そして終わりなき定義論争を生む
→文脈理解が不十分になり、用語に謎の“ありがたみ”が生まれる
いずれのポチ(箇条書きの行頭記号を”ポチ”というのはどこか愛らしい)も重大だが、1つ目はまだかわいげがある。というか、丁寧に説明をするだとか、身をもって示すだとかによってまだ対処のしようがある。
対して、2つ目のポチ(文脈欠如)への対応は一筋縄ではいかない。例えば、原著やその関連文献にあたることで、その用語の文脈理解をできる限り深めることはできる。ただし、そうしたことに取り組む人は実際のところ限定的である。やったとしても日本の出版社による翻訳版を読んだり、通訳付きの原著者イベントに参加したりするのが関の山である。
そして、そうしたカタカナ用語の文脈理解の不十分さが行き着く先は「◯◯デザインとは結局なにか?」という終わりなき定義論争。もしくは「これが日本がイケてない原因か」という自傷思考であったりする。
また、こうした定義論争や自傷思考のプロセスは、往々にして専門家をファシリテーターにして行われる。例えばそれは、海外でデザインの学位を修めたひとだとか、有名なデザイン組織のひとだったりが多い。もちろんそうした方々は新たにカタカナで舶来したデザイン用語の文脈をよく押さえていると信じている。しかし、その聴衆が彼らと同等レベルに舶来したデザイン用語の文脈を90分程度でおえられるとは思えない。
すると次第に、新たにカタカナで舶来したデザイン用語に、“謎のありがたみ”が付与されていくことになる。それがカタカタでやってきたデザイン用語の少し厄介なところである。
インフレする舶来デザイン論
言語の壁やデザインという分野に限らず、知らない概念や用語の文脈を正しく汲み取ろうとすることは確かに骨の折れる作業である。また、現実問題として全ての人がそうした文脈を理解するためにコミットすることは現実的ではない。しかしだからこそ、カタカナ語として舶来したデザイン方法論や倫理論は、その“ありがたみ”が簡単にインフレ状態に陥る。特に「高い英語障壁」そして「失われた30年」を自負する日本においては、こうしたカタカナ舶来用語への期待感がより高まりやすいかもしれない。
しかし、残念ながらカタカナ語として伝来するデザイン方法論や倫理論の多くは、その文脈において、日本(もしくは東洋世界)に存在するリアリティや知恵は加味されていないことがよくある。つまり「これまでなかったように見えて、実際は我々にとっては身近だった」ということが往々にしてあり得るのである。
実際にアールト大で授業をとっていると、「奈良には市街地に鹿が長らく共存してる」だとか「スーパーに並ぶ野菜に農家の人の情報がついてる」だとかが、Multispecies DesignやCommonsの文脈で、もはや嬉々として紹介や議論されていたりすることもあった。日本で生まれ育った僕としては、すこし嬉しくも、「あ、はい、そうですね笑」というリアクションである。
“謎のありがたみ”の恩恵
お気づきの通り、カタカナ語を使うこと自体が悪いのではない。カタカナで西洋的なデザイン方法論や倫理論を輸入・伝播されることで、その文脈性が失われやすくなり、謎の“ありがたみ”が生まれてしまう、という話である。
しかし、こうした謎の“ありがたみ”はデザイナーと名乗る人々のとってはなかなか都合が良い。
なぜならば、デザイナーという職業は別に国家資格制でもなんでもない。名乗れば誰でもなれるし、そうであるべきと主張するデザイン名著や格言は多い。しかしだからこそ、デザイナーという職業は(スターデザイナーを除いて)自己の価値を他人にどう証明するのかが問題になる。言い換えれば、絶えず市場を煽り続けないといけないのだ。
こうした状況において、小難しそう、でもありがたそうな、カタカナのデザイン方法論や倫理論は便利だ。
なぜなら、それらは
「私(〇〇デザイナー)はあなたが知らないことを知っている」
「私(〇〇デザイナー)はあなたにできないことができる」
というイリュージョンを市場に作り出すことができるからだ。
実際に昨今のデザイナーの呼び名は実にありがたそうなものである。コミュニケーションデザイナー・サービスデザイナー・ビジネスデザイナー・ストラテジックデザイナー、色々ある。そして、それに対するよくある質問が「それはつまり何する人?」である。
しかし、それでいいのだ。なぜなら、そうしたぼんやり感は、デザイナーという職業にとって自己の価値をより高く匂わせることができるからだ。これは悪いことではない。なぜなら我々のジョブマーケットの多くは基本的にそうした期待値の煽り合いで実在しているからだ。
ちなみに、ここにおいて、いわゆるモノを作らない職業をデザイナーと呼ぶべきかという話は問題ではない。なぜなら、◯◯デザイナーの◯◯の多様化は、いわゆる伝統的(もしくは正統派?)とされる“デザイナー”たちの願望でもあるからだ。
例えば…
「より暮らしやすい社会のためにはデザインが重要だ」
「デザイナーをもっとビジネスの上流工程に入れ込むべきだ」
「デザイナーの給与はその役割に比して少なすぎる」
こうした言説は、別にそのデザイナーがものづくりに特化していようが、してなかろうが、よく聞かれたものである。そして「◯◯デザイナーの◯◯の多様化」は、実際こうした主張を実現するために一役買っている。そしてその◯◯のアイデアの多くは、西洋的文脈から舶来したカタカナ用語から着想を得ている。
小難しさにごまかされないデザイン
他方で、こうした“謎のありがたみ”の恩恵をあづかるデザイナーたちは、これを信じてくれている人々を幻滅させなように注意しなければいけない。
言い換えれば、デザイナーという職業の権利を主張するために異なる職業をコケにすることや、権利主張だけをして義務を果たさないということがあってはいけない。
また似たような話だが、新たなデザイン方法論や倫理論を持ち出す際は、十分にその文脈をおさえようとする努力が必要に思える。なぜならそれはすでにどこかに実は存在してたアイデアかもしれないからだ。
ここまでの話は、現在の修士課程の必須科目「Desig Culture Now」の内容を中心に最近モヤモヤと考えているものである。特に講義内で紹介されて言うたSilvio Lorussoの『What Design Can't Do』は、まだ翻訳版もないと思いますが、非常に示唆に富むものでしたの、個人的におすすめします。
デザイナーが自らを文化形成や意思決定プロセスの頂点に位置付けがちなのは、自分のため?他人のため?誰のため?
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