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新刊無料公開『新しいカレーの歴史 上』 リジー・コリンガム『インドカレー伝』の問題点(その2)

新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。

新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。

日本語に翻訳された海外のカレー史の本として、手軽に入手できるリジー・コリンガム『インドカレー伝』。

他の海外のカレー史の本、David Burnett, Helen Saberi『THE ROAD TO VINDALOO』、David Burton『THE RAJ AT TABLE』、Jo Monroe『STAR OF INDIA』、Jennifer Brennan『Curries and Bugles』等と読み比べるとわかりますが、『インドカレー伝』は突出して嘘、デタラメが多いダメ本です。

日本のカレー史研究のデマの発生源となっている『インドカレー伝』の「第6章 カレー粉」検証部分を、『新しいカレーの歴史 上』から無料公開します。ページは2006年版『インドカレー伝』のものです。

リジー・コリンガム『インドカレー伝』の問題点(その2)


その1からの続きです

  コリンガムが捏造したのは、17-18世紀のイギリス人のスパイス嫌いというストーリーだけではない。コリンガムはシチューが下層階級の食べ物とみなされていたせいで、シチューの一種であるカレーが中流階級に拒絶されたと主張する。

 “カレーは当初、シチューの一種として見られたせいで割を食っていた。シチューは、下層階級の肉の調理方法と見なされていたからだ。”(コリンガム 2006:178)

 コリンガムがこの主張の根拠として引用しているのがSarah Freeman『Mutton and Oysters』の125ページだが、その次のページには正反対のことが書かれている。下層階級の人々はシチューを嫌っていたというのだ。

 “The lower classes' alleged aversion to soups and stews seems to have stemmed partly from dislike of sloppy food, which was perhaps connected with the fact that, either from preference or lack of implements, many of them were in the habit of eating with their fingers”
 “下層階級の人々がスープやシチューを嫌った理由の一部は、彼らが水っぽい食べ物を嫌ったことにあるようだ。かれらの多くは食器(引用者注 スプーン)を持っていなかったり、嫌っており、食べ物は指で食べる習慣があった。おそらくこのことに関係しているのだろう。”(Freeman 1989:126)

 “シチューは、下層階級の肉の調理方法と見なされていた”というのはコリンガムの資料誤読。125ページに書かれているのは、inferior meatつまりすじの入っているような安い肉の調理法と思われていたということだ。

 18世紀後半の中流階級向け料理書のカレーレシピにおいては、高級食材である鶏肉がもっぱら使われていたことは今まで見てきた通り。カレーは安っぽい肉のシチュー料理ではなく、高級料理として18世紀後半に普及したのである。

 コリンガムが料理書を全く読まずに、シチューにルーを入れていた、カレーにルーを入れていたといった嘘情報を捏造していたことは既に指摘した通り。コリンガムは他にも、各種料理書の内容と矛盾する嘘情報を次々と捏造していく。

 “カレーは残り物の冷めた肉を使いきるすばらしい方法として、もてはやされるようになった。”(コリンガム 2006:178)

 コリンガムは19世紀なかばに中流階級がカレーを受け入れた理由の一つとして、“残り物の冷めた肉を使いきるすばらしい方法”として重宝されたことがあると考える。

 ところが中流階級がカレーを受け入れたのは18世紀後半。そして18世紀後半の全ての料理書において、「残り物の冷めた肉」を使ったカレーレシピは存在しない。使われていたのは新鮮な肉、しかも高級食材の鶏肉だ

 1806年のMaria Eliza Rundell『A NEW SYSTEM OF DOMESTIC COOKERY』においてようやく、一つのレシピの注釈に「生肉だけでなく加熱した(dressed)肉を使っても良い」という文言が現れるが(Rundell 1806:82)、あくまでメインは新鮮な肉や魚介類であった。

 Rundell自身も、カレーには新鮮な素材を使うべきだと主張している。

 “Dressed fowl or meat may be done; but the curry will be better made of fresh.”
 “加熱済みの鶏肉やその他の肉を使ってもよいのですが、カレーには新鮮な肉を使ったほうがよいのです。”(Rundell 1806:82)

 19世紀のベストセラー料理書William Kitchiner『THE COOK'S ORACLE』、Alexis Soyer『THE MODERN HOUSEWIFE』、Eliza Acton『MODERN COOKERY』においても、ほとんどか全てのカレーレシピに新鮮な肉あるいは魚介類が使われている。

 『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』ですら、9種類のカレーレシピのうち4つしかCold Meatを使っていない。

 “ピートン夫人の中流階級向けレシピの決定版では、牛肉と鶏肉のカレーはいずれも、「冷めた肉の料理」に適しているとされている。”(コリンガム 2006:178)

 『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の9つのカレーレシピのうち、牛肉と鶏肉の「冷めた肉の料理」は2つのみ。そのいずれにも“「冷めた肉の料理」に適している”とは書かれていない(Beeton 1861:289,459)。コリンガムの捏造である。

 それどころか鶏肉のカレー「CURRIED FOWL」レシピには

 “This curry may be made of cold chicken, but undressed meat will be found far superior”
 “調理済みのチキンの残り肉を使用してもよいのですが、調理していない生(undressed)の肉を使用したほうがはるかに美味しいのです”(Beeton 1861:458)

と、新鮮な鶏肉のほうがカレーに適していると明記されている。

 “カレーは残り物を使う手段としての評判をかなぐり捨てて、夕食会にも登場しはじめた。”(コリンガム 2006:181)

 夕食会(ディナー)の献立にカレーが登場したのは18世紀後半。カレーは普及当初から、ディナーにふさわしい高級料理とされていた。

 イギリスで二番目に古いカレーレシピを掲載している1769年の『The art of Cookery and Pastery』においては、8月のディナー献立例に「Currey」が登場する(Skeat 1769:ベージ不詳 P48の後の添付資料)。

イギリスで二番目に古いカレーレシピを掲載している1769年の『The art of Cookery and Pastery』における8月のディナー献立例 右下にCurrey

 『THE ART OF COOKERY Made PLAIN and EASY』は1796年の版以降ディナー献立例を載せるようになるが、その2月のディナーにカレーが登場している(Glasse 1796:MODERN BILL OF FARE FOR EACH MONTH xxx)。

1796年の『THE ART OF COOKERY Made PLAIN and EASY』における2月のディナー献立例
FIRST COURSEにカレーが登場

 「さらなる研究のための英語文献案内」で指摘したように、コリーン・テイラー・センの『カレーの歴史』における間違いのいくつかは、コリンガムに由来するものだ。コリンガムを盲信することは危険である。本格的な研究を目指すならば、コリンガムの引用文献を一つ一つ確認し、他の英語文献も読んでクロスチェックをしないと、足をすくわれることになるだろう。