新刊無料公開『新しいカレーの歴史 上』 リジー・コリンガム『インドカレー伝』の問題点(その1)
新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。
新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。
日本語に翻訳された海外のカレー史の本として、手軽に入手できるリジー・コリンガム『インドカレー伝』。
他の海外のカレー史の本、David Burnett, Helen Saberi『THE ROAD TO VINDALOO』、David Burton『THE RAJ AT TABLE』、Jo Monroe『STAR OF INDIA』、Jennifer Brennan『Curries and Bugles』等と読み比べるとわかりますが、『インドカレー伝』は突出して嘘、デタラメが多いダメ本です。
日本のカレー史研究のデマの発生源となっている『インドカレー伝』の「第6章 カレー粉」検証部分を、『新しいカレーの歴史 上』から無料公開します。ページは2006年版『インドカレー伝』のものです。
リジー・コリンガム『インドカレー伝』の問題点(その1)
スパイスがヨーロッパを、そして世界史を動かした。
Jo Monroe『STAR OF INDIA』をはじめとするカレー史の本は、この世界史の基本事実の確認から始まることが多い。
ヨーロッパにおけるコショウなどの輸入スパイスは、かつては大変高価な王侯貴族の調味料であった。スパイスを安く入手するためにヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰ルートを発見し、大航海時代が始まる。
イギリスは1600年に、スパイスの輸入等を目的に東インド会社を設立。東南アジアにおけるオランダとの競争に敗れたイギリス東インド会社は、インドに橋頭堡を確保。ムガール帝国の弱体化とともになし崩し的に軍事力を強め、プラッシーの戦いでフランスに勝利してからはインドを半植民地化していく。
ここらへんはカレー史の本を読まずとも、世界史の教育を受けたものならば常識として知っている範囲であろう。
ところが、この世界史の常識を否定する人がいる。リジー・コリンガムである。
コリンガムによると、イギリスを含むヨーロッパの人々は17世紀から18世紀にかけてスパイスが嫌いになり、料理からスパイスを排除していたそうだ。
1600年以降ヨーロッパの人々がスパイスを嫌い、スパイスを輸入しなくなったならば、何のためにイギリスは東インド会社を設立し、オランダやフランスと争い、インドを植民地化していったのであろうか?
全くもって意味不明な主張だが、ともかくもコリンガムによるとそれらの世界史的事象にスパイスは関係せず、ヨーロッパ諸国は意味不明の行動原理でアジアに進出し馬鹿騒ぎを起こしていたというのだ。
コリンガムによると、19世紀半ばに中流階級が受け入れることで、イギリスにカレーが普及したという。
Waldropをはじめとする他の研究者は、中流階級にカレーが普及したのは18世紀後半からとしているが、18世紀のイギリス人はスパイスを嫌っていたというのがコリンガムが幻視する世界線であるから、そのようなことはありえないのだ。
それではなぜ、スパイス嫌いのイギリス人が19世紀半ばになって突然、カレーを食べ始めたのか。
この「生産者」というのはカレーペーストで有名なキャプテン・ホワイトのこと(カレーペーストに関しては『新しいカレーの歴史 上』参照)。コリンガムによると、1840年代にカレー関連業者が宣伝を始めるまで、イギリスの中流階級はカレーを受け入れなかったというのだ。
二百数十年に渡ってスパイス嫌いを貫いていたのに、宣伝が始まったとたんにカレーを食べだす宣伝に流されやすい軽佻浮薄な人間というのが、リジー・コリンガムのイギリス人像だ。
1770年代にインドからカレー粉が輸入され、カレー粉を使ったカレーレシピが中流階級向けベストセラー料理書の定番となり、1800年前後にはカレー粉を自作するためのレシピが料理書に載りはじめ、1820年代以降はイギリス国内産のカレー粉が出回るようになった、というのが実際に起った出来事である。
ところがコリンガムによると、スパイス嫌いの中流階級の人々は、1840年代までカレーを食べなかったという。それまでの東インド会社は人々が使いもしないカレー粉を輸出し続け、料理書の著者たちは人々が作らないはずのカレーレシピを延々と載せ続け、イギリスのメーカーは売れるはずのないカレー粉を作っていたというのが、コリンガムが幻視するカレーの世界線である。
先述の通り、コリンガムがその独特の歴史観の根拠としているのが、Nupur Chaudhuri, Margaret Strobelの『Western Women and Imperialism』。
コリンガムはこのNupur Chaudhuriの主張、18世紀までカレーは流行していなかったという主張を信じ、17世紀から18世紀までスパイスが嫌われていたというストーリーを捏造したのであろう。
ところがこのNupur Chaudhuriの主張、資料誤読によって生まれた間違った主張なのである。
Nupur Chaudhuriが根拠として提示している引用文献は、1957年初版のDorothy Hartley『Food In England』(以下は2009年の復刻版からの引用)。そこには同じ文章があるが、一点だけ異なる点がある。「19世紀」とは書かれていないのだ。
それどころか別の文章においては、東インド会社社員が持ち帰ったインド更紗(chintz)などの輸入品は、18世紀までに流行していたと書かれている。つまり東インド会社社員のイギリスへの帰国は18世紀以前の話なのだ。
つまり資料誤読によって生まれたNupur Chaudhuriの主張、19世紀初めに東インド会社社員が休暇で帰国するようになるまでカレーは流行していなかったという主張を元に、コリンガムはありもしない歴史を捏造したのである。
続きます