札幌ラーメン誕生の経緯はわからずじまいで迷宮入り しかしそのルーツは関東のラーメン(支那そば)にある

 

 札幌ラーメンを生んだといわれる竹家食堂。

 その歴史については様々な異なった説が錯綜していますが、最も信頼性が高い資料は、創業者の長男大久のぼるの証言と四男大久昌巳が書いた小説を収録した『「竹家食堂」ものがたり』です。

 ところが困ったことに、この両者が語る竹家食堂の歴史、大久のぼるが語る歴史と、大久昌巳の小説における歴史が、大きく異なるのです。

 長男の大久のぼるは大正2年生まれ。子供とはいえ、大正末に生まれたとされる竹家の札幌ラーメンの誕生経緯を直接見聞きした世代です。

 一方、四男大久昌巳は昭和5年生まれ。竹家で札幌ラーメンが生まれたのは誕生前の話であり、その記述内容は全て伝聞に基づくものです。

 当然のことながら、長男大久のぼるの証言のほうが信頼性が高いように思えます。

 ところが、そうも断言できないのです。

 四男大久昌巳はあとがきにおいて”この物語を記すに当たっては、最も長くタツと暮した三女大久昌枝と、タツの孫大久拡子の協力を得た”とわざわざ記述しています。

 タツというのは大久兄弟の母親、創業者の妻のことです。つまり、大久昌巳は複数の親族から収集した創業者の妻の証言から物語を構成していると思われます。

「竹家食堂」ものがたりP15

 妻タツは、専業主婦として家にこもっていたのではなく、従業員の司令塔として竹家食堂の経営に直接参加していました。

 いわば共同創業者であった妻の証言と長男の証言。

 どちらの証言が正しいのか第三者には判断できませんが、四男の大久昌巳は確信を持って、長男のぼるが語る歴史は間違いであると判断したようです。


 大久のぼるも、大久昌巳も、既にこの世を去りました。

 いったいどちらの話が本当なのか、もはや確かめる手段はありません。

 竹家食堂における札幌ラーメン誕生の経緯は、謎のまま迷宮入りとなってしまったのです。



 大久のぼると大久昌巳の語る竹家食堂の歴史で最も異なるのは、札幌ラーメンのルーツに関する部分です。つまり、肝心かなめの部分が、全く異なるのです。

 大久のぼるは、札幌ラーメンのルーツは山東人の王文彩がもちこんだ肉絲麺にあるとしています。この肉絲麺を、後任の中国人コックが改良して札幌ラーメンの形に仕上げた、というのです。

 一方大久昌巳は、札幌ラーメンは肉絲麺の改良の結果生まれたものではなく、関東の支那そばがそっくりそのまま持ち込まれたものであると語ります。

 ”中国料理は関西では北京料理が主流となっているように思えたので広東料理の徐を雇った。”
 ”料理の一つにラーメンを入れた。しかしその頃関東ではラーメンの名称はなく「中華そば」 「支那そば」である。徐は支那そばの仕込みに入った。”
 ”昌治は三人の料理人に言った。 「ラーメンはこれで行こう。竹家の方にも取り入れてみよう。”

「竹家食堂」ものがたりP160

「竹家食堂」ものがたりP162

 つまり、これまでさんざん語られてきた「札幌ラーメンは竹家食堂の発明」という説が、親族によって真っ向から否定されているのです。これはかなり衝撃的です。


 長男のぼるの「札幌ラーメン竹家食堂発明説」と四男昌巳の「札幌ラーメンは関東の支那そば説」、どちらを信じればいいのか。

 実は、本質的にはこの両者の説に違いはないのです。

 長男のぼるの「札幌ラーメン竹家食堂発明説」を詳細に検討すると、やはり竹家食堂の札幌ラーメンのルーツは横浜/東京のラーメン(支那そば)にあるという結論にいきつくのです。

 次回は、長男のぼるの証言を細かく検討してみます。