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収入ゼロになった2022年。

喪中につき新年のご挨拶は控え、
近況のご報告と、お世話になっている皆様へのお礼に替えさせていただきます。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。僕は過去にないピンチ状態です。

まずは近況のご報告から。

2022年は、得たものよりも失ったものに目が行ってしまうような一年でした。

具体的に言えば、収入を失いました。
妻子は幸い今のところ失わずに済んでいます。

自転車の素晴らしさをもっと多くの人に届けたい、という思いで古巣のリクルートを飛び出してはや2年、
自転車乗り向けのメディアを運営する会社に勤めて、業界を広く知ることで課題を発掘しつつ、自分でも会社を作ってその課題に向き合う、という両輪で活動してきました。

勤めていた方の会社については、諸事情あって退職することにしました。
すると退職後に頂く予定だった仕事が破談になったことで収入がなくなりました。

この辺の話は結構面白いので、機会があればどこかでお披露目しようと思います。

良い機会なので自分の会社に集中したい気持ちがありましたが、軌道に乗るまでは収入がありません。
日々を生きるお金を稼ぐためにも、お仕事を頂くなどする必要があったため、勤め先や業務委託の仕事を探し始めました。

ですが、僕自身が自分の会社に集中したい、とにかく無収入だけは避けたい、と心の底では思っていながら、魂のこもった志望動機が言えるはずもありません。
歯を食いしばってしばらくの間挑戦してみましたが、当然のように仕事には繋がりませんでした。

焦りから家族への配慮が足りなくなることも多く、妻にあたることもありました。
認知行動療法のカウンセリングを受けるようになりました。

色々しんどくなってきて、動悸がしたり、肩が凝りすぎて手が痺れたりするようになりました。
何より、真剣に事業を営む人たちに対して、単に日銭を稼ぎたいだけの自分がそれっぽい動機をひねり出して並べたてることに対して
とてつもなく罪悪感が湧くようになりました。

困ってるなら言ってくれたら良かったのに、と、最近になってご報告した際に温かい言葉を頂くこともありますが、
僕にとって大切な人であればあるほど、おそらく相談すれば助けてくれようとしてしまうので、逆に相談できないという状況でした。

経験上、これ以上続けるとまずいな、と思ったので、妻に協力をお願いし、しばらくは自分の会社の事業を育てることに集中させてもらえることになりました。
事業が軌道に乗るまでは無報酬のため、蓄えを切り崩しながらの生活になります。妻や子供には、現在進行系で大変な苦労をかけています。

それで会社が軌道に乗ればチャンチャンなのですが、そう思ったようにはいきません。
目標に及ばない限りは報酬を受け取らないことにしているので、おうちのお財布はどんどん厳しくなります。

会社としては、それでもすでにご期待を頂いているお客様に応えるためにも、一歩でも前進するために仕掛けをし続けている、という状態です。
当然、仕掛けをするのにもコストが掛かる中、なかなかにヒリヒリする意思決定を日々続けるような状況が続いています。仲間にも大変な苦労をかけています。

それプレッシャーやばくないか?と言われます。
正直やばいっす。
確かに、今の状況は、過去に恐れていたことの全てが現実になったような状況です。
普通に頑張ればそこそこの生活を続けられたはずの大企業を飛び出した結果、
収入がなくなって妻娘には不便な生活を強い、起業仲間には何ももたらせていません。
もともとプライドが高い人間なので、わりと簡単に凹みます。

実際に、仕事を探してるときなどはかなり心が弱りました。
収入がなくなったらどうしよう、どうしよう、どうしようと毎日そればかり考えていました。
ですが今は、この場所にこうやって自ら恥を晒せる程度には自己同一性を保っていますし、それどころか割と落ち着いています。
それはなぜかと言えば、考え方に大きな変化があったからです。

その大きな変化は、2つの出来事からもたらされました。

1つ目の出来事は、認知行動療法のカウンセリングでの先生との会話です。

「よくこんな風に喧嘩が始まっちゃいます」と話してみたところ、カウンセラーから僕にご指摘がありました。
「聞かれてもいないアドバイスを勝手に浴びせかけるのはやめろ」とのことでした。

例えばの話ですが、あなたのパートナーが転職しようと思い、あなたにそれを伝えてきたとします。
「どうして転職したいの?」あなたは聞くでしょう。
ここでは仮に「上司や部署の人と合わなくて」とパートナーが答えたとします。
「どんな風に合わないの?」「なにか嫌なことでもあったの?」色々聞きたくなるでしょう。
大事なパートナーなので、辛い目にはあってほしくないものです。
パートナーが嫌がらない限りは、こうやって聞くぶんには基本的には構いません。

だけどここで言ってはいけないことがあります。
「転職じゃなくて配置転換を人事に依頼してみたら?」
「うまくいかないときに環境のせいにしていても成長しないし、もう少し向き合ってみたら?」
これらは、「どうすればいいと思う?」「あなただったらどうする?」と意見を求められない限りは、
聞かれてもいないアドバイスです。言ってはいけない。とのことでした。

なぜでしょうか?
問題の解決を目的にして合理的に考えれば、このケースの場合、まずは今の職場や自分との関係性において、何が問題の根本原因なのかを探り、
転職以外の打ち手も含めて検討(岸田,2022)した上で、なるべく根本的に問題を解消でき、なおかつ低コストな次の一手を打つことが”正しい"ことに思えます。
転職というエネルギーや時間を要する打ち手の前に、まずは今の職場で上司の上司に相談してみるとか、味方を増やして居心地を良くするよう頑張ってみる
ほうが、結果的に得たいものを得られる可能性が高い場合も十分にありそうです。
熱くなってそういった合理性を欠いた状態で、転職という結論ありきで判断をしようとしている大事なパートナーを、黙って見過ごすのは無責任に思えます。
少なくとも以前の僕はそう思っていて、だから「こうしようと思う」という妻に対して
「そもそも何がしたいの?→だったらこうしたらいいじゃん」と反射的に指摘をしていました。

ですが、たとえあなたがどれだけ合理的な正解を考えられる頭の良い人だろうと、
なんなら未来が見えるタイプの超能力者であろうと、相手から求められない限り、勝手なアドバイスはNGなのです。

その理由のひとつは、
あなたが勝手にアドバイスすることによって、パートナー自身が「自らの頭で考えて行動する」というプロセスそのものや、
「自分の意思決定によって成功する経験」「失敗する経験」「失敗したとしてもその結果を受け入れる経験」「失敗から学んで次に活かす経験」をする機会を、奪ってしまうからです。
(もっと言えば、ただパートナーやその状況を理解したくて質問を投げかけるという行為も、もしパートナーがそれを好ましく思わないのであれば、それは出過ぎた行為です。
理解したい、納得したいのはあなたの都合であって、それを解消するためにパートナーを消耗させるのは自己中心的です。)

ここで疑問が湧いてきます。
アドバイスする/しないはこちらの行動だけど、その通りにする/しないはパートナー自身の意思決定なわけだから、
単にアドバイスを聞いたパートナーが「そういう意見もあるのね〜ありがと〜」と流したり、聞いてから更に自分で考えればいいわけだし、
アドバイスすること自体がNGとまでは言えないんじゃないか?という疑問です。

それに答えるのが理由のふたつめです。
それは、勝手にアドバイスをするという行動そのものが、
他人の判断を自分の価値基準(「合理性」も一つの価値基準でしかない)で勝手にジャッジして当てはめ、
かつ相手にもそれを要求する二重の押しつけにもなりうるからです。

僕も含めて、自分を合理的判断ができると思っている人にありがちな勘違いなのですが、
合理的に判断することで担保されるのはひとまず「合理性」だけで、合理性が担保された判断=良い判断、かどうかはわかりません。

ビジネスの世界では合理性による意思決定が支配的なので、それを内面化してあらゆる場面での判断基準としている人も多く見られますが、
合理性はビジネスの意思決定以外に持ち込むと、なんか人とコミュニケーションの周波数があってないように感じたり、人間関係がこじれたりすることがあります。

社会人になってちょっと経ってから里帰りすると、家族や地元の友だちがアホに見えてちょっと小馬鹿にした態度をとっちゃったりして、
母ちゃんからちょっと悲しいような嬉しいような生暖かい視線を向けられたり、友達から「イキってる」なんてイジられる現象が全国各地で報告されていますが、
あれはこれが原因です。

自分という人間ひとりをとっても、いつだって合理性だけを判断基準に生きているわけではありませんし、
ましてや目の前の人が、そもそも合理的に判断したい人なのかもわかりません。

加えて、ひとつ視点をメタ的な場所に持ってくると、先程書いた
========
「アドバイスする/しないはこちらの行動だけど、その通りにする/しないはパートナー自身の意思決定なわけだから、
単にアドバイスを聞いたパートナーが「そういう意見もあるのね〜ありがと〜」と流したり、聞いてから更に自分で考えればいい
========
これがそもそも合理的な考え方による対処方法です。つまり、ここであなたは、
「私が考えた合理的な意見を聞くこと」に加えて、
「その意見を合理的に処理すること」まで要求しているのです。合理性バーガーです。
これを押し付けと言わずしてなんと言うでしょうか。そして合理性バーガーは果たしておいしいのでしょうか。

複雑な状況やこころの中を、“合理性"という単一の尺度で無理やり測ってそれを押しつける、という行為は、なぜ避けられるべきか。
それは、早い話が人権侵害だからです。「別に聞きたくもない話を聞かない権利」を侵害しているんですね。
そして人権を侵害されると(自覚を伴うかどうかは別として)、悲しかったり怒れちゃったり、自己肯定感が低下したりするからです。

この場合は合理性を押し付けているわけですが、
これは相手を合理的判断のための装置のように扱い、そう変容させようとする試みにほかなりません。
人はそのように扱われると、自覚の有無を問わず、著しく尊厳を傷つけられたと感じるようです。
「マスクしてないやつは逮捕!」みたいな生政治的な権力行使に対する反発があったりとか、
自分を会社や社会の歯車のように感じて寂しくなる時があるのも、
背後にはこういった心の動きがあるように思います。

誤解を避けるために言っておくと、今は合理性を例に出しているだけで、合理性が悪であるというわけではありません。
単一であろうと複眼的であろうと、自分の判断基準や価値の尺度を、求められてもいない相手に浴びせかけるのは、
自分は気持ちいいかもしれないけど、相手はそうでもないかもしれない、というお話です。

以上が、聞かれてもいない勝手なアドバイスを浴びせてはいけない理由、と僕は理解しています。

そうやって機会を奪ったり、尊厳を傷つけられ続けることは、人間関係に何をもたらすか。

パートナーは「あなたがいないと正常な判断ができない人」扱いをされ続け、
子供の場合は「あなたがいないと生きていけない人」扱いをされ続けながら歳を重ねます。
そんな扱いをされ続けると、ほんとにそうなっていっちゃいます。

ここで重要なのは、単純に相手があなたに依存するだけでなく、
あなた自身もアドバイスするという快楽や、それを聞いてくれる相手という快楽製造装置を得ることで、
支配ー被支配という共依存関係が成り立ってしまう、ということです。
人間関係がこじれることの原因の多くは、無意識のうちに形成されたこの共依存関係にあるそうです。

こういった関係は、親子や、専業主婦(夫)家庭の夫婦など、どちらかに意思決定の主導権が偏りがちな関係性において多く見られるそうで、
結果的に、いわゆるモラハラ夫とか鬼嫁、毒親と呼ばれるような状態になっていくことがあります。

余談ですが、引きこもりの子を持つ親にはある共通点が見られるそうです。
その共通点とは、カウンセラーが子供に「普段おうちで何して過ごしてるの?」と尋ねると、
子供が答えるより先に、親が「ゲームしてるんだよね」「本を読んでるんだよね」と返答してしまう、というものだそうです。
これはかなり象徴的な話に思えます。

皮肉なのが、上記の余談の例も含めてほとんど全ての場合、「相手のために」「この子のために」言ったりやったりしてる、ということです。
別に相手を依存させてやろうなんて思ってる人はいないのです。
どんな親だって、自分の子には泣いているより笑っていてほしい。
だから泣いていればご飯やミルクをあげ、ぐずっていればあやし、危険は取り除いて、と世話を焼きます。

でも上のような考え方や事例を見てみると、どうやらいつでもそうしているのが良いわけでもなさそうです。

「これで遊んじゃダメ」「ここで遊んじゃダメ」「これは食べちゃダメ」と、教育や危機回避と思って色々と行動に制限をかけたり、

逆に「いい子だね」「よくできたね」と、親の思い通りに動いたときに褒めたり、

ということをついやりたくなってしまいますが、
もしかするとそれらは、子自身が考え、失敗し、学び成長する機会を奪ってしまっているかもしれない。

それどころか、子が思い通りに動かないときにイラッとしてしまう、ということは、裏返せば
子供を「自分の思い通りに動くべきもの」として扱っている証拠とも言えます。

そう思うと、ちょっと考えないといけないような気がしてきました。

かといって、歩きたての幼児が道でフラフラ歩いていて、明らかに車が近づいているのに、
「車に轢かれることで危険を学ぶはず!」と放っておく、なんてことができるか、といえば、それこそ非人道的に思えます。

おそらく、このような判断の基準は一律に決められるものではなく、その時その場ごとで考えるしかないように思います。
一発で何かが決まってしまう判断(たとえば死ぬとか)もあるでしょうが、
多くは、その判断で良かったのか、そうでないのか、答えが出るのすらいつになるかも分からない、そんな判断になるでしょう。

話がそれましたが、まとめると。
聞かれてもいないアドバイスを投げかけることは、すなわち相手を否定し支配しようとする行為であり、
アドバイスする側には一種の快楽をもたらし、気分をよくさせながら、
他方ではアドバイスされた側の尊厳を傷つけて共依存関係をつくる入り口になっている、というわけで、
それって愛と呼べるんでしょうか?という話です。

めちゃくちゃ長くなりましたが、カウンセリングでこういった話を聞く経験が、思考の転換の入り口の一つになりました。

そして、2つ目の出来事は、歴史、特に近代や現代の思想の勉強です。

今年、尊敬する先輩から「絶対これ好きだと思う」とご紹介頂いたのが、
深井龍之介さん率いる株式会社コテンの音声コンテンツ「COTEN RADIO」でした。

内容はシンプルで、誰もが知るような「偉人」はこんな人生を歩んだんだよ、とか、
お金ってこんな風に生まれて今の資本主義までつながってるんだよ、とか、
フランス革命ってこんな風に始まって終わったんだよ、とか、
「そうだったんだ〜」と思うような歴史の小話を、3人のおじさんたち(と言っても同年代)がひたすらお話する、というものです。

吉田松陰の松下村塾は有名ですが、実は2年もやってなくて、でもそこから明治政府の総理大臣を確か2名とか、大臣を確か5名とか排出してるって異常じゃね?とか。
社会契約論で有名なルソーは実は変態で、道行く少女に下半身を露出して喜んでたし、しかもそれを自分で自伝に書いてるとかやばくね?とか。
ブッダやガンディーは結構いい年になるまでニート同然だったとか、高杉晋作はわりと飽きっぽい上に直情型で、色々トライしては向いてない、とかってやめちゃったりして、実は晩年まで大きな功績はのこしてないけど、突然すごいことしたと思ったらすぐに(しかも病気で)亡くなった、とか。

聞いてるだけで面白いので、youtubeやpodcastで検索してぜひ聞いてみて下さい。

僕の場合は、尊敬する先輩がそこまで言うなら、と何の気なしに通勤中に聞き始めたのですが、
正直聞きながら何度涙したかわからないくらい感動し、世界の見え方や、自分に対する考え方が大きく変化するきっかけになりました。

早い話が、「今ここで起きていることの意味とか価値みたいなものを、今ここで自分が決めることにあんまり意味がない」という考え方になりました。

最近聞いた高杉晋作の回から象徴的な事例を出してみます(うろ覚えなので細かいところは多分間違ってる)。

高杉晋作は、長州藩で生まれ育ち、家柄が良かったり野心的だったり運が良かったりで、長州藩の重要な役職に就きます。
でもわりとすぐに、忘れたけど本人の暴走だか政治的競争に負けたとかだかで、役職も土地も財産も
全て失って牢屋に閉じ込められてしまいます。本人はとても悔しかったようです。
しかし、晋作が牢屋に閉じ込められている間に、確かイギリスと長州藩の間で戦争が起こり、長州藩はボロ負けした上に、当時の長州藩の重要人物が
ことごとく死んでしまいます。晋作は牢屋に入っていたので無事でした。
そうやって人がいなくなった長州藩が、イギリスと敗戦交渉(賠償金いくら払うとか)をしなければならない、どうしよう、となったときに
牢屋にいて無事だった晋作を呼び戻したことで、晋作の活躍が始まります。

晋作は牢屋に入れられて悔しい思いをしたでしょうが、逆にそれがあったから生き残ることができ、後世に名を残す偉人となったのです。

もう少し時間軸を長くとってみます。
晋作も含めて、長州藩は明治維新の渦中において大きな役割を担ったわけですが、ではなぜ長州藩がそうなったかといえば、
さかのぼって200年以上前、関ケ原の決戦のときに負けた大名(確か毛利氏)が、徳川幕府統治下においては外様大名として冷遇されたことに、原因の一端があります。
ひとつには、敗戦や冷遇の恨みを200年以上も温め続けたことが、統幕の思想的背景になったこと、
もうひとつには、幕府から冷遇、つまり治める土地を減らされた=税収を減らされた=家臣に払う給料が減らされた、にも関わらず、
給料減ってもいいっす!と離れずに仕え続けてくれた家臣がいたことで、人をすごく大事にする藩になったこと。
晋作を含めた若手藩士を、江戸や上海、欧州に留学させるなど、人への投資をしたことで、近代兵器の威力や重要性に気がつくことができたと言われています。
アホみたいに単純に考えてみると、徳川幕府が生まれたということが、徳川幕府が滅ぶ原因になったとも言えます。

このように人物や出来事をクロニクル化して捉えてみると気づくのは、
実は出来事や結果の良し悪しや価値、意味や意義は、誰がいつどんな立場から見るのかによってぜんぜん変わっちゃうということです。

そうやって思いながら鑑みると、
いかに自分が、「いま」「ここで」「私が」「何者かにならなければ」という思想に支配されているか、ということに気が付きます。
全ては「私が何者かになるため」という、功利的で短期的で自己中心的な枠組みで思考され、その目的にとって
「意味のあることか」を「いま」「わたしが」決めるという思考プロセスです。

このような思考をしたとき、「意味のない人生」という概念も同時に生まれます。
では意味のない人生とは、どういう人生なのでしょうか?

こんな男がいたとしましょう。
高校卒業後、進学ができずお金もないため自衛隊に入隊。しかししばらくすると退職し、
アルバイトや派遣で暮らしながら、頑張って宅建やファイナンシャルプランナーの資格を取得するも、
仕事には結びつかない。片田舎の倉庫に勤務しながら日々、同僚と会話することもなく、自分で作った弁当を車の中でひとり食べる生活。
家賃3万5千円のアパートぐらしで、40歳を手前に恋人も去っていってしまった。
たった一人このまま死んでいくとしたら、「自分の人生に何の意味があったのか」と思ってしまいそうです。

実際にそう思ったかはわかりませんが、実は実在するこの男はこのあと、
ひとりアパートで銃や爆発物、そして殺意を準備し、演説中の元首相を襲撃することになります。

流行語に「タイパ」なんて言葉が出てきたとか、最近の若者は映画を1.5倍速で消費しているらしいという話題を聞くと、
僕のような自称オトナは「最近の若者って」とこれまた短絡的に世代論で片付けようとしますが、
その実私自身も、生産性!経済性!合理性!などを錦の御旗に、いかに単位時間あたり生産量を増やすかに汲々としていたりします。
読書するにしても「時間と金の無駄」を気にしてレビューや評価をみたり、そもそもこの本を読むことに「何の意味があるか」なんて無意識に考えちゃったりします。
なんとなく感じる生きづらさの背後には、そういう自分自身の考え方が隠れていそうな気がします。

そこにいくと、「実は出来事や結果の良し悪しや価値、意味や意義は、誰がいつどんな立場から見るのかによってぜんぜん変わっちゃうよね」
という気づきは、福音のように思われてきます。

極端な話、僕がこのまま人生で何の価値も生み出さずに明日死にました。とすると、一見それは、僕からすると意味のない人生に思えてしまいます。
ですがおそらく、僕がこのように死んだ、という事実は、少なくとも娘や家族、もしかすると会社の仲間、もしかするとこれまで出会ってきた皆様に、なんらかの影響を与えるような気がします。
「うちの父ちゃんは、頑張って会社やってたけど失敗してそのまま死んだんだ!だから私は、、」と、娘が奮起したりするかもしれません。
逆に娘が「だから私も頑張っても意味ない」とニヒリズムに陥る可能性はありますが、そうやってニヒリズムに陥った娘を見た他の誰かが、「これじゃいかん」と奮起するかもしれません。

もっと極端に言えば、「意味のない人生」という概念は、生まれてすぐに死んでしまった赤ちゃんの人生を「意味がなかった」と切り捨てることに他ならないわけです。
この場合、本人は意味があるとかないとかすら思わないわけですが、だからといって、誰にとっても何の意味もなかった、なんてことはありえないでしょう。

だから、どんな出来事にいつどんな価値があるか、なんて、いま自分が決める必要も意味もない、というか決めようとすると苦しくなるばかりなように思えるから、
やめちゃっていいように思います。

以上が、考え方が大きく変わった2つのきっかけでした。

ここから思考と解釈を広げて、とりあえず大事にしてみようかな、と思っている考え方が3つあります。

ひとつめ:失敗や苦しみもような"マイナス”っぽい出来事や感情でも、否定も肯定もしなくていい

今僕はけっこう苦しい状況なわけですが、このようなピンチに対処するための思考を巡らせる機会を得ていると捉えることができます。

発達過程において反抗期は重要、とはよく言われますが、反抗には反抗の対象が必要で、反抗の対象とは多くの場合、
(特に理不尽な)抑圧だったりします。つまりは理不尽な状況は、人を成長させるきっかけになることもあるのです。

と、捉えることができるのですが、実は別に、こんな風に捉えなくても良いような気もしています。
ピンチはチャンス!とか、成長は痛みを伴う!とか、昔会社にいたときもそれっぽいイデオロギーはありましたが、そうやって
苦しみをなにか「意味のある」他のものに変換するのも、結局は短絡的功利的自己中心的な意思決定プロセスを採用しているだけ、な気がしています。
いまここにある苦しみを意味化して消費するより、単純に苦しいと思いながら苦しむほうが、人間本来の心の動きに近いような気がします。
だからいま、わたし苦しいです。とっても。ただそう思おうと思います。

ふたつめ:正解を勝手に決めない

子供がなにかに興味を持ったら、それを自由にやらせてあげられるくらいは経済力がほしい。
これは親であれば誰でもそう思うのではないかと思います。
大学に行きたいと言うなら行かせてあげたい。スポーツがやりたいと言うならその機会を作ってあげたい。

それはなぜかと言えば、自分自身が親にそうしてもらってよかったと思っていたり、
逆に、親にそうしてもらえなかった、もらいたかったという考えがあるから、だと思います。

しかし、子供の希望が(すぐに)叶う、ということが、果たして子供にとっての幸福なのかはわかりません。
確かにスポーツを習わせれば技能は向上するでしょうし、塾に通えば学力は向上するかもしれません。
そこでの努力によって、何かの選手になったり東大に入ったりすることができるかもしれません。

よく言われる話ですが、では金メダリストは世界一幸せなのか、官僚は全員幸せなのか、世界一のお金持ちは世界一幸せなのか、
と考えてみると、どうやらそうでもないような気がしてきます。
貧乏をバネにして頑張ったお笑い芸人がテレビで輝いたりもしています。でも不倫して凋落したりもしています。
ここで言う「テレビで輝く」とか「不倫して凋落」すらも、なんとなくそれが良いことだったり悪いことだと
思っている僕のモノサシでしかないのです。

受け入れがたいですが、自分が親にしてもらったように、子供にもしてあげたい、と考えることそのものが、
今の自分を肯定したい、そうやって肯定された自己を再生産したい、というひとりよがりな思考なように思います。
(自分がそうしてもらいたかった、という親の否定も、「親のせいで今の自分はこうなった」という他責による自己防衛=自己肯定と言えます)
それどころか、「子供のために!」と思うことそのものが、価値基準の押しつけなわけです。
「子供のために」じゃなくて、「子供のために頑張ってる良い親でいたい」という私自身の欲望のために頑張ってる、と自覚したいと思います。

さいご:上記すべてを前提として考えたときに、それでも真摯に意志をもって生きたい

行動や出来事、人物としての価値や意味を、今決めることに意味がない、という考え方を紹介しました。
この考えかたは当然、「じゃあ何したって意味ないじゃん、頑張っても意味ないし、誰かのためにと思っても意味ないし」と、冷笑系ニヒリズムに陥る可能性を内包しています。

だからここではっきりと切り分けておく必要があるのは、結果と意志です。
上記の考え方は、あくまで結果を論ずるときに出てくる考え方です。確かに結果について、いま、私がその評価をすることに意味はありません。

ですが、「どういうつもりでやるか」「どうしたいと思ってやるか」には、自分の意志として善悪や価値、意味が宿っていて良いと思います。
善なる意図を持って行う、意味や意義を生み出そうと意図を持って生きる、ということはできますし、それは否定されるべきものではないように思います。

自分自身が何がしたいか、どうありたいか、と考えたとき、
それでも何かを「したい」と思ったとき、それはもうどうなるにせよやってみて、結果は主観的に評価しなくていい、と思っています。
個人的にはその際に、極端に近視眼的にも功利的にも自己中心的にもならずに考える人でいたいと思います。

先程紹介したラジオでお話されている深井さんも、(実際はわかりませんが)おそらく同じようなことを仰っています。
「人間はただ生まれてきて死ぬだけでも99%役割を果たしているんだから、残りの1%は好きなことやったらいい」
すごく救われた気持ちになります。

という3つの考え方を最近発掘しました。という近況のご報告でした。
2023年、今年は34歳になる歳です。
テーマの1つ目は「勉強」です。楽しいので、継続して行おうと思います。不惑の40まであと7年です。
そして2つ目は「知行合一」です。最近勉強している陽明学から、これはと思った考え方を取り入れてみます。

さて、信じられないほど長くなりましたが、
2022年に1年かけて溜まりに溜まったモヤモヤを言語化できてスッキリしました。
まさかここまでご覧いただいた方はいないかと思いますが、もしいらっしゃったなら、
気が合う方のように思いますので、今年も何かとお世話になることがあるかと思います。
どこかでぜひ議論の機会をいただけますと幸いです。

皆様に助けて頂いてようやく半人前くらいの人間になれたか、なれないか、という私ですが、
皆様がいなければ私は私ですらないのだ、ということにようやく気がついたこのごろです。
改めて感謝申し上げます。ありがとうございます。
最後になりましたが、本年も何卒よろしくお願い致します。

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文学フリマ

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