「天気の子」に10年越しで救われた話

 天気の子を観た。観ました。とにかくこの感情が劣化しない内に書き留めておかなければならないと、急いで筆を走らせている。でも、これは天気の子の感想ではなく、新海誠論でもない。ただの自分語りのポエムだ。
(あまり意識してないけど、ポエムなのでネタバレはほとんどないはず)

新海誠との出会い

 もう10年以上も前になるが、「秒速5センチメートル」という作品を初めて観たときの衝撃を未だに覚えている。「地に足ついた今この世界のありのままを、こんなに綺麗な絵で描いたアニメがあるなんて!!」と一瞬で虜になった。それまでは、ディズニーやジブリといった極々一部の例外を除いてアニメはアニメ好きしか観ないものだ、という感覚があった。どんなに素晴らしく、好きな作品があったとしても、それがアニメであった時点でその射程は大きく制限されてしまう。より正確にはアニメに限らず、小説・ゲーム・漫画といった他の創作物についても全く同じ思いを抱いていた。
 それは「私が大切にしているものは、他人にとっては手に取る選択肢すら存在しないものなのだ」という、ある種の諦観だった。
 「秒速」を観たとき、それはもしかして勘違いなのかもしれないと思った。「秒速」の先には、アニメという媒体を枷にしない作品があるのかもしれない。それは私の好きなものがあるいは誰にでも届き得るのかもしれないという期待であり、興奮だった。この衝動に突き動かされた私は、親に半ば無理やりに「秒速」を観せたという過去がある(反応は上々だった)

 新海誠という監督を認識したのは、このときが初めてだった(正確に言えば既にminoriの「ef」シリーズで作品に触れてはいたのだが、監督個人の認識には至っていなかった)。私は、好きになった作者の作品は古いものから順に摂取し、その変化の過程を眺めていくという嗜好をもっている。新海誠もその例に漏れず、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」と順に観ていった。過去二作について「秒速」と同程度の衝撃を受けることはなかったものの、十分以上には好ましく、更にそれら初期作を上回る最新作が存在しているという事実に期待し、いつの日か新海誠が壁を破る未来を夢想した。

 そうして公開されたのが「星を追う子ども」である。好きな人には大変申し訳無いのだが、端的に言って、その出来に私は心底落胆した。「秒速」にみた可能性は、ディズニーやジブリの作品群とは明確に異なるアプローチでありながら、アニメという枷を無視できるのではないかという希望であって、決してそれらの模造品を産み出して欲しいわけではなかったからだ。新海誠への信頼が揺らぎ、私は「秒速」の影に長く囚われることになる。

 結局、解放されたのは「言の葉の庭」が公開されてからだ。情報発表時点で作風が回帰している気配はあったが、観に行くまでは本当に不安で仕方がなかったことを覚えている。実際には何もかもが杞憂であり、想像以上の出来に私は歓喜した。個人的な好みを言うならば、「秒速」を超えたとまで思った。ただ、興行収入という面からみれば、大ヒットというにはまだまだ遠いという現実があった。私は次回作への期待を胸に抱きながら、「どこまでも着いていくぞ」なんてことを無責任に考えていた。

「君の名は。」の拒絶

 「君の名は。」を初めて観たとき、そのあまりの変貌ぶりに呆然とした。私が新海誠という監督の作家性と信じ、最も愛していた、独り善がりで内省的な気配がすっぽりと抜け落ちてしまっているように思えたからだ。
(唯一、口噛み酒という気持ち悪さだけはかろうじて生き残っていたが。)
 新海誠という監督の方向性は「言の葉の庭」で既に決定付けられたものと認識していた私は、そのことにひどく狼狽え、作品に対するフラットな視点を失った。メジャーになるというのはそういうことなのだと自分に言い聞かせながら、商業的な成功のために個性を捨てたのだと嘆いた。
 「星を追う子ども」と同じように迷走の末の駄作であったなら、まだ良かった。だが、過去作に比べても作品としての完成度が取り立てて低いとは思えず、何より方向性の変化によって、作品自体の射程が飛躍的に伸びていることは疑いようもなかった。それを証明するように、本作は商業的にも非常に大きな成功を収めることとなったことは、周知の事実である。これを成功した、最高傑作だと言わずして何と言おうか。

 だが、私の感情が指し示す最高傑作は、依然として「言の葉の庭」のままだった。かつて「秒速」で夢想した未来に似たものが実現したというのに、私は素直にそれを喜ぶことができない。それは似たものでしかなく、本質が全く異なるからだ。「君の名は。」は、最初から世界に受け入れられるべくして生まれてきた作品にしか思えなかった。
 私は、ファンであるはずの監督の成功を素直に喜べない自分を恥じた。感情のやり場を求めて、本来する必要がない犯人探しもした。ヒットメーカーである川村元気Pや、本編をMVとして扱うかのごとく存在を主張するRADWIMPSがその変貌の要因となったのだと歪んだ憎しみを募らせた。逆恨みもいいところである。なにせ、その変貌こそが成功の理由なのだ。見つけ出したとしても、それは犯人じゃない、むしろ成功の立役者であろう。

 そうして私は、自らのエゴを自覚させられた。私が真に望んでいたのは、新海誠という監督の成功ではない。新海誠作品に仮託した「私の好きな作品」という概念が世界に受け入れられる瞬間だったのだ。私は無自覚なままに新海誠に自分の理想を重ね、自己の代弁者としての機能を求めていた。作家性だと思っていたものも全て、私の思い込みだったのかもしれない。だから私が「君の名は。」を嫌う感情は、あまりにも身勝手な産物だ。
 同人活動ではないのだから、何はともあれ商業的な成功を否定することはできない。そう、新海誠は何一つとして間違っていない。だから、私は勝手に嘆き悲しむしかないのだ。こうして舵取りを変更した作品で一度成功を収めた新海誠は、もう迷走することはないのだろう。私が愛し喪失した、童貞臭く気持ち悪い新海誠(褒め言葉)は消え失せ、次回作があったとしても、そこに微かに漂う残滓のようなものを追うことしかできないのだろう。

 私は「君の名は。」について考えることをやめ、蓋をした。新海誠が、何かの間違いでもう一度、あの内省的な作品を産み出してくれることを自分勝手に期待して、「秒速」と「言の葉の庭」をただ反芻することに逃げた。

 今思えば、この頃の新海誠に対する感情は、私が好んだ新海誠作品に少し似ている。それは「秒速」で貴樹が明里に抱いていた理想であり、「言の葉の庭」でタカオがユキノに抱いていた仲間意識だった。作品を通して作品世界に同化していた私は、作中人物らと同じように、夢想していたヒロイン(新海誠)との未来が実現しないという現実を突きつけられて塞ぎ込み、過去の幸せな思い出に浸ることで自分を慰めていた。
 この辺り文字にすると本当に気持ち悪いが、事実なので仕方がない。

助走のはじまり

 それから約三年が経過した。時間は何事も解決してくれるもので、私は「私の好きなアニメ映画をつくる新海誠」という幻影を封印し、「国民的アニメ映画監督」となった新海誠の現在を、消極的ながらも受け入れられつつあった。とはいえ、「天気の子」の情報が公開されたとき、RADWIMPSが再び音楽を担当すると目にして、全く落胆しなかったといえば嘘になる。それはメジャー化した新海誠の続投を意味するからだ。だが同時に「どうせ今回もよく出来ているんだろうな」という乱暴な信頼感があったことも事実だ。

 「天気の子」の公開日が迫ってきたある日、私は蓋をしていた「君の名は。」ともう一度向き合うことを決めた。「天気の子」は余計なバイアスをかけず、受け手として純粋に作品を受け取りたいと考えたからだ。そのためには、私はまず「君の名は。」を完全に受け入れなければならない。一切の身勝手な思い込みを捨て、公平な視線をもって「君の名は。」を再評価しなければ、「天気の子」を観に行くことはできないと思ったのだ。

 いざ再鑑賞を終えてみれば、私は拍子抜けするぐらいあっさりと、「君の名は。」を好意的に受け止めることができた。素直に面白いと思い、よく出来ていると感心できた。実際、それらの感想は公開当時に抱いたものから何一つ変わってはいないのだけど、かつてはその後ろに「でも」が付属していた。でも昔の新海誠は、でも新海誠の個性が、でもでもでも。
 それは、年齢を重ねたことによって、感性が変化したからなのかもしれない。もしくは、「秒速」当時に比べればオタク的なコンテンツのもつ射程は飛躍的に伸びており、世界に受け入れられない切実さが薄れているためなのかもしれない。あるいは単純に、新海誠に対する信仰が摩耗し鈍化したためなのかもしれない。かつての強い感情が消えてしまったことは少し寂しくもあったが、独り善がりな妄執を捨て去ることができた嬉しさのほうが大きかった。これで私も真っ当な一ファンになることができたのだと思った。

 そうして私は「天気の子」を観た。既に公開から日は経っていたが、意識して一切の情報をシャットアウトしていたので、映画館で繰り返し流れる予告編と、「君の名は。」と同じ世界の話らしい(いつもの事ではあるが)ということが、持っている情報の全てだった

薄暗い部屋の中で

 観終わってからしばらくの間、とにかく感情が渦巻いていて、どう言葉にすればいいのか分からなかった。

 大々的に宣伝が打たれていた「天気の子」は一見すると「君の名は。」と同じパッケージングが為されていて、家族連れ・カップル誰でもウェルカムの大衆向けアニメ映画の表情をしていた。私もそれを信じ込んでいた。

 観終えたとき、いやむしろ観ている最中からずっと、記憶の端にちらついていたものがある。それは空虚な学生時代を耐え凌ぐために、薄暗い自室の中で生きる糧としていたゼロ年代の作品群だった。何か特定の作品というわけではない。もっと漠然とした、あの部屋で作品に触れて過ごした時間そのもの、記憶の輪郭のようなものが頭に浮かんでいた。
 勿論、内容的な側面から本作と共通項のある作品を抽出することもできるだろう。例えばそれは「ef」であり、「AIR」であり、「イリヤの空、UFOの夏 」だ。だが、その行為自体にそれほど意味はない。理屈はどうでもいい。私にとって重要なのは、「天気の子」を観たとき、私はたしかにあの頃の興奮を、その手触りを想起したということだ。だから冒頭で宣言した通り、これはどこまでも個人的な話でしかない。

 取り分け強く感じたのは、かつてオタク文化の中心近くに位置していた、ビジュアルノベルゲーム(エロゲ/ギャルゲ)の気配だ。私は中でもシナリオゲーと呼ばれる物語重視のゲームに傾倒していたオタクの一人で、そうした作品を貪ることに今では考えられないぐらい多くの時間をつぎ込んでいた。
 残念ながら、業界自体が斜陽だと言われるようになってから既に長い。無期限休止、解散、消息不明となったブランドは多いし、メインを別の業態へシフトした会社もある。名を馳せたライター達も、魔法少女をやったり、同人ゲーム作ったり、ガチャの中に英雄を並べたりしている。既に界隈で新作を追うこともやめた私に、その変化を悲しむ権利はないだろう。それでも、あの頃の私はたしかに、あの作品達に救われていた。

 ただ、そうしたビジュアルノベルゲームは冒頭で書いた諦観の極地のようなもので、広く人に受け入れてもらえる類のものでは到底ない。アニメや漫画については「秒速」に仮託したように可能性を感じていた私も、これについては最初から諦めてしまっていたし、想像することすらしていなかった。

 だが「天気の子」を携えた新海誠は、そこに殴り込んできた。

新海誠は世界の形を変えたのか

あの光に入りたくて、必死に走っていた。
そしてその果てに、君がいたんだ。

 決して完璧な作品とは言えなかった。ご都合的なお粗末さ(雑なマクガフィンとしての銃、乱発されるタックル、先輩のワープetc)は目につくし、テンポやゲストキャラの処理方法にも不満はある。でも、それが新海誠だ。
 男女二人の閉じた「セカイ系」的(未熟さ故に定義の曖昧な言葉に頼ることを許して欲しい)な雰囲気をたっぷりと散りばめながら、ここぞというキメの場面では"画"の美しさで黙らせる力技。「細かい設定だの辻褄合わせなんて知らねえ! 気持ちよく描きたい画を描くんだよ!」という潔さ。降らせたきゃ夏だろうが雪も降らせるし、東京だって水に沈めちゃう。それが、新海誠だ(本当か?)

 新海誠は、あの空前の大ヒット映画「君の名は。」で手にした地位と金と技術を武器に、自分がやってきたこと、やりたかったことの精度を高めて、大衆向けアニメ映画の繭で包んでしれっと叩きつけてきたのだ。そして描きたいことのためには、自らを押し上げてくれた「君の名は。」のラストすらも容赦なく破壊してしまう。何もかもが大いなる助走だった。本当にたまらない。それでいい、それでいいのだ。どこまでも走っていってくれ。

 私はその中に(勝手に)ゼロ年代の気配を見つけた。どうして「天気の子」に、ここまで強くあの作品群を想起させられたのだろう。分からない。主人公らの選択を強調する作り云々等と作品を分析すれば説明がつけられるのかもしれないが、正直そんなことには興味がない。そもそも人に理解できるように説明する必要があるだろうか。万が一、新海誠が生涯でただの一本もビジュアルノベルゲームを完走しておらず、制作時に頭の片隅にすら存在していなかったとしても関係ない。「天気の子」を観た私があの懐かしい手触りをもう一度思い出したことだけは、揺るぎない真実だ。

 「国民的アニメ映画監督」の最新作として公開されたゼロ年代の結晶によって、私があの頃に縋りながらも秘めてきた作品群の魅力は決して思い込みではなかったのだと、証明される機会が生まれた。「秒速」を観たときに夢想した私の無責任な願いは、望外のかたちをもって成就した。新海誠は、あの薄暗い部屋に陽の光を当ててくれたのだ。そう、私は信じたい。

2000年代に僕らが見ていたものが続いてきて、『天気の子』になって、20代の母親が小学生の女の子を連れて行って見るような映画になっているんです。
だからもっと誇りに思っていいと思うんですよね。自分が好きなものを。

 そんな妄想を考えながら書き進めていたら、こんな記事を見つけてしまった。もう言葉もない。今はただ、「天気の子」の商業的な成功を祈りたい。

 ありがとう、新海誠監督。


(余裕があればちゃんと「天気の子」自体の感想も書き留めておきたいけど、二回目行ってからかな……。)

おまけ

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