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弱さを振りかざすな、弱さを認めろ。

私が好きな作家に、借金玉さんという人がいる。その方が書いたnoteの文章に、刺激を受けてこの記事を書いている。

弱さを認めることで豊かになれるという、とても素敵な文章だ。是非一読してほしい。

さて、これから書く文章はあくまで私が感じ考えたことであり、借金玉さんの考えとは全くの無関係である。その点を承知の上で、お読みいただきたい。

■弱さを持たない人などいない

一般的な話として、弱いという言葉から受ける印象は「かわいそう」とか「守ってあげたい」などが多いのではないだろうか。わかりやすい例えで言えば、生まれたばかりの赤ちゃんに対して感じる印象がそれである。

余談だが「可愛い」という言葉には「いたわしい」「ふびんだ」という意味もある。もちろん一般的に多くの人が感じている「愛すべきである」といった感情も正しいのだが、赤ちゃんに対して「可愛い」と感じるのは、こうした要素も含まれているのではないか。そんなことは……と思う前に、自分の感覚を疑ってみよう。思わぬ発見があるかもしれない。

さて、人は様々な形で「弱さ」を持つ。頭の回転が遅い、病弱だ、友だちが少ない、お金がない、あるいは見た目が良くないと言われることもそうだろう。田舎に住んでいる、ということも「弱さ」になりうる。

つまり、人は大なり小なり「弱さ」を抱えているのだ。一見するとそうは見えない人でも、必ず何かしらの「弱さ」を持っている。当たり前といえば当たり前のことなのだが、目に付きやすいか付きにくいかというだけで、気づかれないことは多い。

この「弱さ」をどう扱うかは、おおむね2つに分けられる。

1つは、自分の「弱さ」を認めるということ。認めた上でどう行動するかはその人の考え方や状況次第だ。向き合って克服しようとするか、あるいは諦めて対応策を練るか。借金玉さんの受け入れる、というのもまた認めるの1つである。

そしてもう1つ、それは自分の「弱さ」を「弱さ」と認められず、振りかざすということだ。

■弱さを武器にする人たち

人は時としてこの「弱さ」を武器にしてしまうことがある。それが自覚的であればまだ直しようもあるのだが、大体の人は無自覚にこれをやってしまう。しかも、それがいじめの構造につながっていることにすら気づかない。

まず、武器にするとはどういうことか。つまり、自分は弱い立場なのだから「助けられて」「可愛がられて」「面倒見てもらえて」「気を遣ってもらえて」当然である、という前提で話をしてくる。これはなかなか厄介だ。

相手は自分を「弱者」と思い込んでいるので、少しでも否定しようものならこっちを悪者にしてくる。と言っても、概ねその人が言っていることは論点がずれていたり、そもそもの認識が間違っていたりして、始末に負えない。だが不用意にそうした点を突こうとすると「私が弱者だからそうやって責めるんだ」と、平気で(しかし半ば本気で)論点をすり替える。

自分で言っているうちはまだいい方で、これが悪化してくると「私がダメだからこう言われるんですよね」という言い回しで、周りに同意を求める。それどころか、代わりに攻撃をさせる。これが悪口や批判なら周りも理解しやすいのだが、さらに厄介な場合がある。それは、「周りに褒めさせる」という状況である。

■弱さで言葉を奪う

つまり「私はこんなに否定されてきたんですが、皆さんそう想いますか?」という文脈から発展して「あなたは大変な目にあってきた、でも私はそんなひどいことは思わない、あなたは本当は素晴らしい」という褒めさせ方をするということだ。

遠回しな言い方になってしまったが、要するに「私ってブスですよね?」「そんなことないよ!可愛いよ!」である。ネットやアイドル現場などでよく見る光景だが、実はこれ非常に悪質な洗脳である。

つまり、相手に自分の美醜を判断させない→考えさせる余地を無くしているわけだ。もし、ここに疑義を挟む人間がいたとしたらどうなるだろうか。正しい分析だったとしても、当然それを受け入れられるわけがない。向こうからすれば「弱者を攻撃する強者」である。「あいつは酷い奴だ」と認識され、その人の界隈からは遠ざけられる。場合によっては攻撃さえされるだろう。

この徒党を組むような構造ができあがると、もはやその人に対して否定をする人間はいなくなる。仮にいたとしても、それは彼らの敵だから意味をなさない。ファンの語源はファナティック=狂信者とはよく知られた話である。

ここで挙げた例は極端かもしれないが、確実に今もどこかで行われている。少し前の宇崎ちゃん騒動などは、フェミニストを自称する人たちによるわかりやすい例で、可視化されていない「弱者の正義」を御旗にしたいじめは、どこにだって存在している。(※20/2/5追記)言うまでもなくこれは、フェミニズムを否定するものではない。

そして、気づかないうちに私達はそのいじめに加担している。良かれと思って言ったその褒め言葉は、相手を増長させ、見知らぬ誰かを攻撃しているかもしれない。自分の判断基準が本当に自分で作り上げたものか、今一度確かめてみたほうがいいかもしれない。

■弱者の正義を捨て、弱さを受け入れる

最初に伝えたとおり、弱さは誰もが持つものだ。だが、それを正義として振りかざした瞬間、その人は弱者ではなくなる。強者ですらない。ただの卑怯者だ。私達は決してそんな卑怯者に加担してはいけないし、ましてや卑怯者になってはいけない。ではどうすればよいのか。

そのための答えが「弱さを受け入れる」ことではないか。

自分自身が持つ「弱さ」をありのまま認め、受け入れ、その上でどうするかを、自分の頭で考えるということ。それこそが、卑怯者に成り下がらない唯一にして確実な方法である。

弱いことは悪いことでもなんでもない。弱さは自分を見つめるきっかけになり、自分がどうありたいかを知る道標にもなってくれる。悪いのは、弱いことを理由に動かないことだ。考え行動した結果、その弱さをそのままにすると決めても構わないのだ。

人は赤ちゃんのままではいられない。一朝一夕になんとかなることではないとしても、今動かなければ、朝と夕が何度来たって成長しない。いい大人が赤ちゃんのふりをして周りを攻撃することは、卑怯そのものである。

弱さを振りかざすな、弱さを認めろ。それこそが、あなたがあなたらしく、健全に生きられる唯一の道なのだから。

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