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敦盛

「敦盛」は、日本の室町時代に人気のあった舞いの演目の1つで、1184年の一の谷の合戦で弱冠16歳の平敦盛が源氏方の熊谷直実に討たれた物語を扱っています。かの織田信長が桶狭間の合戦に出陣する直前に舞ったとされることで、非常に有名になりました。「にんげん五十年~」の一節ですね。

さっそく動画を見てみましょう。この動画は端から端まで視聴しても5分です。

「敦盛」の舞いの歌詞は、次の書籍に全文が出ています。

インターネットで無料で読めるものを見つけました。「敦盛」は長いです、信長が歌って待っている部分はほんのごく一部を切り出したものです。さらには、原文ベースでは、文の途中から切り出すような感じになっています。親切なことに、織田信長が切り出した部分は赤字で書いてあります。

http://takeuchiteruo.seesaa.net/article/463067923.html

https://web.archive.org/web/20130510081527/http://www.ikedakai.com/bunken/asakusa.html

信長が歌って舞ったのは、以下の太字の部分です。どのように切り出したかがよくわかるように、その前後も持ってきました。

「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、この世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て無常の風に誘わるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり。
 人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか
 是を菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
と思い定め、急ぎ都へ上りつつ敦盛の御首を見れば、もの憂さに獄門よりも盗み取り我が宿に帰り、御僧を供養し無常の煙となし申す。

敦盛を打ち取った直実の心情の独白の部分になります。現世で人の生きている時間は、天界(宇宙)の時間スケールに比べれば一瞬に過ぎない短さだ、夢幻のようなものだという死生観が強調されています。桶狭間での今川義元急襲の直前に舞った信長の心境を考えると、目前の決戦への集中を鼓舞するところに、つながっていったのかなと思います。桶狭間の頃、信長は27才の青年でした。

先述の通り、元の物語は、戦の成り行き上、死んだ自分の息子と同い年の少年敦盛を自分の手で討つことになってしまった直実の物語です。ちょうど、この部分は、冒頭の一文にある通り、一の谷の合戦の勝利の後、源氏が屋島を攻める直前の状況です。直実は一の谷の合戦で懲りていて、もう屋島の戦に参加したくないのですね。事実、その後、直実は出家します。つまりは、本来は、そんな文脈での人間五十年~ を含むゴシック部分ということです。

現世の人生の一瞬のはかなさ、諸行無常から厭戦気分の直実の物語だったのですが、ゴシック部分だけを歌う信長の舞いでは、まったく厭戦的な気分は取り去られてしまっています。重要決戦の出陣の前に舞うことで、それどころか、違ったメッセージを発することになっているようにも思います。天下布武を目指す信長は、人の一生の短さ、幻のようなはかなさは、よく理解していたうえで、厭戦、好戦のような文脈で戦をとらえることを乗り越えていたのかもしれません。現代風にとらえるとすれば、戦のところをビジネスとか、研究とか、仕事とか、に置き換えるとわかりやすいのかも。

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