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耳なし芳一の謎

「耳なし芳一」は、平家物語の琵琶弾き語りの盲目の名手、芳一が幽霊に狙われる物語です。そうだとは知らず、誘われるまま、真夜中に安徳天皇の墓前で演じる芳一を救うため、寺の和尚と小僧は芳一の体中に般若心経の経文を書いたが、耳に筆を入れ忘れました。そのため、亡霊の目には、芳一の耳だけが宙に浮いているように見え、耳を引きちぎって帰って行ったということです。この話は、Lafcadio Hearn(小泉八雲)の 1904年の著作 "Kwaidan: Stories and Studies of Strange Things" (怪談) に出ています。今日は、ひょんなことで、耳なし芳一について考えてみました。

https://www.youtube.com/watch?v=qfPdo3T8xWg

https://www.amazon.co.jp/dp/4805307501

この話は、盲目の琵琶の名手が、平家武者の亡霊に両耳を生きたまま暴力的に引きちぎられるという残虐な設定の物語です。その激しい痛みに声も出さずに耐えたというのは、にわかに信じられないことです。野蛮な暴力によってではなく、自発的に耳をおさえて内面の奥深くからの声で叫ぶムンクに、ぜひとも「どう思う?」と意見を聞いてみたいです。事の顛末を知った和尚のリアクションもいまとつ不可解です。「申し訳ないことをした」といったレベルです。第一、耳に写経なんて、本当にできるのでしょうか? 耳に書き忘れたなら、もっと他のこまごましたところ、写経しにくいところも省略したのではないかとも推測されます。平家の亡霊は、そこは見落としたのでしょうか? あるいは、いろいろあったが、なにか1つ持って帰れば申し開きができると考え、耳を選んだのでしょうか? さらに、結末もあっさりとしており、この奇怪な遭難のおかげで、芳一はかえって有名になり、琵琶の名手としての名声がさらに高まったということです。両耳を失った後遺症は、音楽、芸術に影響に与えたりしないのでしょうか。それよりなにより、こんなたいへんな恐怖体験で、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder  心的外傷後ストレス障害)がもっと心配です。普通の人ならば、琵琶の演奏どころではなくなるかもしれません。

以上のように、耳なし芳一の物語は、単に怪談であるだけでなく、物語の構成もかなり奇怪です。

芳一が得意としたのは、平家物語の壇ノ浦合戦のくだりということです。

https://www.youtube.com/watch?v=hzYTuSa74gQ

壇ノ浦の合戦は、ついに平家が滅亡する結末になります。平家一門が一時的に頂点をきわめた時期を思えば、その大きな落差は感慨深いものがあり、一方の当事者である平家の側にたってみれば、大変な無念でしょう。平家物語のこのパートの天才的な名手であった芳一の演奏に心が動くのはもっともなところがあります。

しかし、壇ノ浦合戦で平家を滅亡に追い込んだ源氏の大将、源義経は、その4年後に奥州で討たれてしまいました。その10年後には、源氏の棟梁で鎌倉幕府を開いた頼朝も死に、その後幕府は北条氏に指導されるようになりますし、源義経と対立関係にあったとよく言われる梶原景時も頼朝死後、すぐ一族ともども討たれています。

平家の栄華と没落だけでなく、その平家を滅ぼした武士たちの、その後の命運もよく見ておくべきです。一連の政治・軍事抗争が結果的にどういうものであったかをもう少し俯瞰するのであれば、壇ノ浦だけが特別な悲劇というわけではない、源平の時代そのものが移り変わりが激しく、諸行無常、盛者必滅の一局面であることに気づくでしょう。当時の武家は、その頂点にあった者たちほど、その時代に翻弄されていました。

この「耳なし芳一」のなかにでてくる戦死した平家の武者の亡霊は、やや近視眼的でした。もう少し、偏った見方から自由になれると、わざわざ芳一にかかわる必要もなく、まして両耳を引きちぎって持ち帰る必要などまったくなかったでしょう。

ひょっとすると、芳一は、平家物語のプロの演奏者ゆえ、そのような理解に達していたかもしれません。亡霊との付き合い方も、常人とは違って淡々としているのは、そのような境地ゆえであるのかも。盲目であるというけれど、盲目な方がむしろほかのあらゆる感覚が圧倒的に鋭敏です。という意味で、興味があるのは、もし和尚さんが般若心経の写経を芳一の体に行なわければどうなっていたか? という点です。芳一も、もう一皮むければ、お経が書いてなくても、亡霊が連れてゆけない水準になったのかもしれない。

どうしてそう思うか。現代でも日本人は、神社、仏閣に行きます。またお守りなども購入したりします。基本、その行動は、当事者にはプラスの効果をもたらしていると思います。そうでなければ、あれほどの数の人がそういったことを継続することが成り立たなくなると思う。では、そのプラスの効果は、参拝したこと、お守りを身に着けたことによる効果なのか。そうであるとも言え、そうでないとも言えるのではないでしょうか。たぶん、行こう、買おうという意思を持ち、その行動を起こした時点で、すでにその効果を果たしているのでしょう。それと同じ意味で、芳一は耳以外も含め、経文を書かなくても、経文を書いたのと同じか、それ以上の状態になれたはずだと思うところです。経文を体に書いてもらうのは、買ったお守りを握りしめるのに似て、自分のその意思をいっそう確実にし自覚の度合いを高めるということでしょう。だから耳に書き忘れたところで、書き忘れの自覚がなければ、影響もないはずです。


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現代は科学が進歩した時代だとよく言われますが、実のところ知識を獲得するほど新たな謎が深まり、広大な未知の世界が広がります。私たちの知識はほんの一部であり、ほとんどわかっていなません。未知を探索することが科学者の任務ではないでしょうか。その活動は、必ずしも簡単なものではなく、後世からみれば群盲評象と映ることでしょう。このマガジンには2019年12月29日から2021年7月31日までの合計582本のエッセイを収録します。科学技術の基礎研究と大学院教育に携わった経験をもとに語っています。

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