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「神の子どもたちはみな踊る」を読む(分析編4)

「かえるくん、東京を救う」を読んで感じたのは強い違和感だ。
…かえるくんがみみずと闘って東京を大地震から救う?
いつも物語を読む時にそうするように、自分の経験に引き寄せることができず、思考が停止してしまう。

そんな時は走りながら考えてみる。
比喩ではなく、文字通り走りながら考える。身体を動かすことで、私の脳は活性化されるようだ。脳細胞に酸素がくまなく行きわたる感覚を覚える(医学的に事実なのかは置いておいて)。
…ああ、私が感じた違和感こそが、この物語を読み解くカギなんだ。

短編の中で、地下鉄サリン事件に関連するテーマを扱った「神の子どもたちはみな踊る」を除いて、登場人物には神戸に親類や知人がいるという共通点がある。また、登場人物はすべて人間である。
「かえるくん、東京を救う」だけがこの条件に当てはまらない。

短編集の冒頭に立ち返ると、ジャン=ジャック・ゴダールの「気狂いピエロ」の一節が引用されている。
「ゲリラが一一五名戦死というだけでは何もわからないわ。(中略)ただ一一五人戦死というだけ」
これは「かえるくん」における片桐の阪神大震災に対する感想と共通しているのではないか。
片桐は阪神大震災が起こったことは当然知っている。だが、それに影響を受けて心境が変化することもなく、日々淡々と生活を送っている。
今っぽい表現で言うなら、阪神大震災は片桐にとって「自分ごと」ではない。

「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」とかえるくんは言った。
これは裏返せば、想像力を持たなければ何も怖くない、ということである。
片桐は借金の取り立てに行ってやくざに殺してやる、と脅されても、特に恐怖を感じていない。それは死に対しての想像力が欠如しているからだ。
しかし、いざ自分が狙撃されると、死が実感を持って迫り、恐怖感が押し寄せてくる。
片桐はそこで想像力のスイッチを切る。

地震のような天変地異に対しても、想像力がなければ恐怖を抱く必要はない。
地震が起こるかもしれない。もし地震が起こったら、当たり前の生活が失われてしまうかもしれない。
それに気付き、想像するから恐怖を感じるのだ。

かえるくんは、「目に見えるものが本当のものとは限りません」とも言った。
私たちが目にする現実は、世界で起こっていることのほんの一部にすぎない。どこかの国で起こる天変地異や、戦争や、事故や、そこで犠牲になった一人ひとりの顔を、私たちは知ることもない。
しかしそれは現実に起きている。
想像力だけが、目に見えないものと私たちをつなぐたった一つの手段だ。

かえるくんは、なぜかえるくんであって人間ではないのか。
それはかえるくんが想像力そのものだからではないだろうか。
片桐はかえるくんの登場によって、想像力の存在を認知した。

今この瞬間も、混濁の中に戻ったかえるくんはどこかで再び形を結び、敵と闘っているのかもしれない。
私たちは、決して想像力のスイッチを切ってはいけない。
「震災を風化させない」とは、そういうことなのではないかと思う。

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