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「神の子どもたちはみな踊る」を読む(番外編~ブラジャーと鮭の皮と冷蔵庫と箱と私~)

…お前は平松愛理か!(しかもなんか多いし)

まずは先日アップされた古川さんのインタビューからの抜粋を。

「小夜子との関係について『コーヒーをただ飲むのでなく、◯◯を見ながら飲んでいるのは、他に何かを意味しているのでしょうか?』とか」(エンタステージ
「ブラジャーはずしゲームで出てくるブラジャーが印象的だけれど、どういう意味なのか?」(アステージ

そう、古川雄輝は、ブラジャーにこだわっている。
ならばブラジャーについて真剣に考えてみようではないか。

「蜂蜜パイ」の中のゲームで、ブラジャーは小夜子によって外され、床に落ち、淳平に拾われて椅子の背にかけられる。それを見ながら彼はコーヒーを飲む。

ブラジャーはずしゲームとは、服を着たままブラジャーを外して、テーブルの上に置いて、それをまたつけるスピードを競うという他愛もない遊びだ。
要は南原清隆におけるパンツ大作戦だ(と、余計なことを書く)。
服を着ているとはいえ、肌に一番近いものを外すところを見せるわけで、普段母と子という血縁関係にある女性のみの場で行われるこのゲームは、参加する者同士の特別な親密さを表す。
ゲームを見たこと、さらに小夜子が新記録を作った手の内を見せたことは、それまで一歩踏み込むことがなかった二人の関係を前に進めたのではないだろうか。

ところで本来、ブラジャーは乳房を包むものだ。淳平が見ているのは、中身を失った入れ物である。
外側と中身は、各短編に繰り返し登場するモチーフだ。
例えば「UFOが釧路に降りる」の鮭の皮、小村が運んだ箱と中身。
「アイロンのある風景」の冷蔵庫。
「蜂蜜パイ」のブラジャー、そして沙羅が怖がる箱。
中身が明示されているのはブラジャーだけで、その他の中身は、何か得体の知れないものだ。
鮭の皮の中身はもちろん鮭だが、皮だけでできている鮭がいるとしたら…という仮定によって、もはや何が外側で、何が中身なのか判別がつけられなくなっている。

正体が分からないものを、私たちは恐れる。
だから小村は、三宅さんは、沙羅は、中身が不明な箱や冷蔵庫に、どちらが中身かわからない鮭の皮に、不安や、混乱や、恐怖を抱いている。
その中身は、いつ来るかわからない天変地異かもしれないし、自分自身が抱える闇かもしれない。

一方でブラジャーはどうだ。
椅子の背にかけられたブラジャーは、ただの「意識を失った白い下着」だ。
淳平がそれを見るとき、彼の意識はブラジャーそのものではなく、中身である小夜子へ、そして小夜子と積み重ねてきた時間へと向かう。
「人生という長丁場を通じて誰かひとりを愛し続けること」というかけがえのない中身を見出した淳平は、もうわけのわからない箱を怖がる必要などないのだ。

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