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「神の子どもたちはみな踊る」を観る(感想1:高槻の孤独)

本当に失礼な話だけれど、今回の舞台の「意外な」収穫の一つは、俳優・川口覚さんとの出会いだと思っている。

原作の高槻はオレオレな感じがして、正直に言って、私は好きではなかった。小夜子に先に手を出しておいて、結婚して子供まで儲けたというのに、仕事にかまけて家庭を省みない。挙句外に女を作って離婚して、淳平に小夜子との結婚を勧める。ちょっと自分勝手すぎやしませんか?と。

なのに、舞台を観た後、高槻については原作から受けた印象とはまったく違う感情を抱くことになった。
ずっと満たされない孤独を抱える人。
そう思うようになったのは、川口さんの演技(と演出)の力によるものだ。

原作では、高槻が小夜子を手に入れ、そして淳平に小夜子と付き合うことになったと告げるまでの葛藤は特に描写されていないのだが、舞台では、高槻が苦手なはずの本を読みながら、頭を抱えるさまが表現されている。
その後、淳平に「かまわないよ」と受け入れられた後は大きくガッツポーズ。
その落差で、私たちは自然に「高槻もそれなりに悩んでいたのだ」と理解することができる(原作では「よかった」とにっこり笑って言う程度)。
そして「大事なのは俺たちが三人でいることだ」と強調する高槻。なんだか押しつけがましいのだけれど、そこに高槻の焦りが透けて見える。淳平が離れてしまったら、きっと小夜子も自分から失われる。だって小夜子が本当に好きなのは淳平だから。
その後淳平が大学に来なくなって、ますます高槻は追い詰められただろう。恋敵の元に、自分の恋人を一人で行かせるなんてどうかしてる。でも三人の関係を守るためにそうせざるを得なかったんだ、高槻は。
原作で「?」と思っていた高槻の心情も、川口さんの演技によって無理なくつながっていく。

就職してからの高槻はさらに孤独を深める。
舞台上で、高槻は自分が新聞記者として見てきた死体について激しい口調で語り、死んだらみんな同じ肉の抜け殻だ、と叫ぶ。そしてセットから突然落下してきた空の箱を舞台袖に投げつける。
小夜子は30歳で妊娠するが、(舞台ではその説明はなかったように思うが)既にこの時、高槻は他の女と関係を結んでいる。
酷い話だけれど、でもどうだろう?本当の心が高槻にない小夜子は、高槻にとっては中身を失った箱のようなものだ。そんな小夜子を抱く虚しさはいかばかりだったか。
沙羅が生まれた夜、淳平を酒を交わしながら語る高槻。
「小夜子はずっとお前が好きだったんだ」
「でも俺には小夜子と付き合う権利があった」
無理やり小夜子を手にした大学時代の自分を正当化するような痛々しさがそこにはあった。
「俺たちはこれで四人になった、でも果たして四って数字は正しいんだろうか?」

その後、ナレーションで高槻と小夜子が沙羅が2歳になる前に離婚したこと、沙羅が高槻を「パパ」、淳平を「ジュンちゃん」と呼んでいることなどが語られるが、原作にはある、高槻が淳平に結婚を勧めるくだりはない。
その代わりになっているのが、高槻が小夜子に電話をかけて、沖縄出張が入ったから4人で動物園に行くのは無理だ、というシーンなのではないかと思っている。
高槻は一方的に動物園に行く約束が果たせなくなったことを告げつつ、沖縄風な鼻歌を歌いながら逃げて行ってしまう。このシーンの高槻は大学時代を思い出すような調子の良さで、それが高槻・淳平・小夜子・沙羅の「四」を、淳平・小夜子・沙羅の「三」に積極的に戻そうとしているのかもしれないと感じさせる。
結果的に、三人で動物園に行った晩、淳平と小夜子は結ばれることになる。

ラストシーンの手前、大学時代に淳平を食事に誘った高槻が回想として現れる。世界一の女性だと思っていた小夜子を結局は手に入れることができなかった高槻の切なさが思われて、泣けてしまう。最後に微笑みを浮かべながら扉の向こうに去っていった高槻が向かう先に、どうか幸せがありますように、と心から願わずにはいられなかった。

原作ではただ身勝手な男に見えていた高槻。
でも舞台にいたのは、自分が力ずくで壊したバランスを、遠回りしながらも自分の手であるべき形に戻した高槻だった。
川口さん、私が見えていなかった高槻を見せてくれてありがとう。
この人の演技を、また他の場でも見てみたいと思う。

※舞台上での台詞は正確なものではありませんので、ご了承ください。

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