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神の子どもたちはみな踊る(分析編5)

「ストーリーはシンプルで読みやすい。さまざまな比喩表現があり、実はこういう意味があるのではないかと考えさせられる。読む側が自由に解釈出来る部分が大きくて、それがハマる理由なのかなと思いました」(「論座」古川雄輝さんのインタビューより)

村上作品を読むことは、化石の発掘に似ている。
作品中に、作者の意図のない表現は一つもない。その膨大な描写一つひとつを丁寧に掘り出しながら、全体を組み上げていく作業のようだ。

表題作「神の子どもたちはみな踊る」は、6つの短編の中でも、特に複雑に要素が絡み合う物語だ。
新興宗教、地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線、と地下鉄サリン事件を連想させるキーワードを盛り込みながら、直接的には事件に触れない。
語られるのはあくまでも、主人公善也と母親・父親との関係性、信仰についてのみである。

主人公・善也は母親に対して性的な興味を抱いている。父親はいない。
ギリシャ悲劇「オイディプス王」を想起させる設定だ。
オイディプス王は、父親を殺し、母親と性的関係を持つ。これは心理学者フロイトが提唱する「エディプスコンプレックス」の語源にもなっている。
「エディプスコンプレックス」とは、「母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧」のことである(専門外なので、詳細はWikipedia参照)。
善也のペニスが大きいのは、父親が不在であり、また母親の無垢とも言える性格により、彼が父親と同等、またはそれ以上の立ち位置にいることを表しているのではないか。
彼が母親と致命的な関係におちいることをひどく恐れていたのは、それがたやすく手に入ってしまいかねない状況だったからである。

善也にとって父とは、「神」=「お方」である。
(もちろん、神が生物学上の父親ではないことを彼は知っているのだけれど)
彼は子供時代、うまく外野フライをとりたいと神に祈る。だが、それが叶えられることはない。こうした父なる神の限りない冷ややかさは、やがて彼を信仰から遠ざける。

社会人になった善也は、生物学上の父親を偶然地下鉄で見かけ、追跡し、見失う。
しかし追いかけてきた父親が視界から消えたとき、彼の中から父親を追ってきた意味そのものが消失する。
神や父親に決して愛されはしなかったという恨みや、神が精神的に、そして父親は(過去に)肉体的に母を独占したことへの嫉妬。信仰を絶ってなお、彼を縛り続けていたのは神でも父親の幻想ではなく、彼自身の心の闇だった。

そして善也は踊る。踊りとは、自然とつながるための手段であり、宗教というより、もっと原始的な信仰に近いものだ。
踊ることで彼は自然の一部であることを実感できる。自然とは美しいだけでなく、目を背けたくなるような汚いもの、暗いもの、災いの元となるものを包含する存在だ。その構成要素の一つである人間もまた同じ。
その全てを創り上げたのが神であるならば。ならば彼が最後に言う「神様」は、かつて彼が信仰した神とは完全に異なるものだ。
善きものであれ、悪しきものであれ、その全てを抱えて彼は前に進む。

…と、一通り表題作を読み解いたが、私はまだ化石発掘の途中段階にある。
(例えばなぜ彼が「かえるくん」と呼ばれるのか、についてはスルーした)
作品を読み返す度、また新たな骨の欠片が見つかる。それを繰り返し、すべてのパーツが出そろった時に見える像は、最初に想像していたものとは違うものかもしれない。
でも何も残念に思うことはない。それがきっと、村上作品の魅力なのだから。

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