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何かを深く理解できるということは、大きな不快が伴うということ

「美術館って難しい! 正直何がいいのか分かんねえ!!」

みたいな話を読みました。


このマンガの中でもそうなんですが、

「何かを理解できるのは良いこと。理解できないのは悪いこと」

っていう価値観があるような気がします。


でも、たぶんですが、「理解」できることは必ずしも良いことではないんじゃないかと思っています。



よく理解できる ⇒ よく不快になる

僕はわりと美術・芸術は理解できる方です。

あと、音楽とか食なんかも理解するのが得意な方。


じゃあそれで美術・音楽・食をいつも楽しめているかというと‥‥正直そうでもないんですね。

むしろ、こういったものを理解するのが不得意な人よりも、不快な思いをすることが多いように思います。


なぜこんなことが起きるかというと

理解するのが得意、つまり何かを読み取るのが得意な人っていうのは、悪いところをたくさん読み取れてしまう人でもあるからです。


その絵を描いた人、その音楽を演奏する人、その料理を作った人が、こんな修行が足りていないとか、知識不足理解不足があるとか、手を抜いているとか、ちょっとだけミスがあったとか、、そういったことが読み取れてしまう。

悪い情報がたくさん入ってくるから、不快になってしまう。

「理解できる人」にはいつもそういうことが起きています。


例えばプロの演奏を聞いて

「お前、この曲全然やり込んでないだろ。直前に演奏してくれたアマよりはるかにやり込んでないよ。どうせアマになんか負けるわけないと思ってたいして練習しなかっただろ、本気で演奏しなかっただろ。丸わかりなんだよ」

って思ったりとか。

よく行く中華屋さんで、いつもと違う人が料理を作ると

「あー、これ違う人が作ったでしょ、丁寧さが違うから一口でわかる。シューマイが蒸しすぎでぼそぼそしてるし揚げワンタンも揚げすぎだしうま煮も熱すぎだし餡の混ぜが足りないから調味料に偏りができてるし野菜の蒸しも足りてなくて茎の歯ごたえが過剰に残ってるし‥‥」

って思ったりとか。

僕はそういう経験がたびたびあります。


これが「ほとんど理解できない人」であれば、そもそも悪い情報がほとんど入ってこないから、不快になりようがないわけです。


でも 
よく理解できる ⇒ たくさんの感動を得られる 
でもある

じゃあ「理解できる」ことは悪いことばかりなのかというと、そうではありません。

逆に良い情報もたくさん読み取ることができる、こんなにも膨大な研鑽を積んで、こういう思いを持って、これだけ真剣に取り組んだ結果としてできたものだ、、といったことが読み取れるわけです。


たとえば歌を聞いて

「えっ、この声質、、うわここでこんな表現、、歌唱力えぐ、、、ああこれ目の前のたった一人の女の人に語りかけてるやつだ、、うわー、すご、すごい。。これを聞けたの幸せすぎる。。。。」

って思ったり。

パンを食べて

「何だこの食パン!! 牛乳もバターも生クリームも入ってない!! 入ってないのに、、え?? とんでもなく美味しい!!?? これはあれだ。『バターがたくさん入ってれば美味しいパンなのか。生クリームをドカドカぶちこめば美味しいパンになるのか。そんな流行りに俺は流されない。パンの本質は小麦粉だ。小麦粉の風味だけを生かして水と砂糖と塩さえあれば至高のパンは作れる。それがこの答えだ』そういうメッセージが込められたパンだ。自分がパン職人だったら絶望して店閉めるレベルのパンだわ‥‥」

って思ったり。


こういった「感動」を与えてくれるのも「理解」があってこそです。


結局「理解」はできた方がいい?

深く「理解」できるということは、多くの「情報」をもたらし、それは多くの「不快」と「感動」という感情をもたらします。


感情の浮き沈みが激しい人生が良いと思う人もいるでしょうし、逆に浮き沈みが小さい安定した人生の方が良いという人もいるでしょう。
それは好みです。

もし浮き沈みが激しい人生が良いなら、物事をより深く理解できた方が良いし、そうでないならむしろ理解できない方が良い。
単にそれだけのことだと思います。


今回は以上です。


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