神の舌を持つ人、かえって役立たずなのでは問題
はじめに
最初に結論です。
【前提】
神の舌を持つ人であろうと、極度の舌音痴であろうと、誰もが食について自由に語ってよいし、語られるべきである
【この記事で言いたいこと】
ただし、神の舌とまではいわずとも、極端に*味覚が鋭い人が食について語ることは、かえって人の役に立たない可能性が高い。味覚が鋭い自覚がある人は、慎重に発信するのが良いかもしれない
このことは、舌音痴についても同様に言えるが、味覚が鋭い=優れている=正しい、と誤解しやすいので、より注意を要する
味覚が鋭い人は、自分より味覚が鈍い人を想定することはできる
それでは語っていきます。
きっかけ
食の解像度(≒味覚の鋭さ)が1,000人に1人レベルらしいので、同じように食を楽しめる人に出会うのが難しい、という話。
このポストをした後にふと思ったのは
1,000人に1人なんて異常な舌を持つ人間はそもそも食を語るべきではないのでは?
ということです。
だって異常者なんだから。
異常者が「これ美味しい」と言ったところで、普通の人はそう思わない確率が高い。
少なくとも、普通の人が普通の人にお勧めするより、打率は低いはず。
であれば、自分は(普通の人に比べて)食について語るべきではないのでは。
そう思ったのが、この記事を書くことになったきっかけです。
「味覚が鋭い」とは
次に、味覚が鋭いとはどういうことなのか整理します。
味覚が鋭いとは、一言でいうと食べ物から多くの情報量を受け取れるということです。
たとえば、あるイチゴアイスを食べたときの、僕の隣のテーブルにいた人と、僕自身のコメントの違いを比較してみましょう。
隣のテーブルの人「おいしい~。ちゃんとイチゴの味するねー」
ぼく「おいしいねー。これ「あまおう」だってはっきり分かるね。本物のイチゴよりも味がはっきりしてるのがすごい! あと、これたぶんイチゴの粒をたくさん使ってるね。果肉じゃなくて粒の味がするもんね、これ」
こんな感じです。
視覚に置き換えるとこんなふうにも表現できます。
味覚が鋭い人は、よりはっきりと見えるので、受け取れる情報量が多い、というイメージですね。
食について語るとき、味覚がおよぼす影響
ではそのような味覚の優れた人が食について語るとき、そうでない人と比べて何が違うのでしょうか。
それは下記の2点ではないかと思います。
情報量が多いので、食べ物に対して豊富に語ることができる
美味しいと感じるものが異なる(ことがある)
1.は先程のイチゴアイスの事例でも分かるように、情報量が多いおかげで、多く語ることができるという話です。
エンタメ的な利点ですね。
次に2.について。
まず前提として、先のXの投稿でも触れましたが、「美味しい」という感覚が一致するには、「味覚のレベル」と「好み」が近い必要があります。
すなわち、「味覚」を「知覚」に一般化して表現するとこうです。
[良し悪しの判断] = [知覚レベル] x [好み]
先程の画像を使って考えてみましょう。
味覚が鈍い場合、端にいるおじいさんとおばあさんはほとんど見えません。
なんとなく見える4~5人だけを見て、この絵が良いとか悪いとか判断することになります。
一方で、味覚が鋭ければ、全員がくっきり見えるので、全員を見て絵の良い悪いを判断することができます。
この結果自然と、良し悪しの結論が変わってくることが予想されます。
そしてもうひとつ大事なのが「好み」。
つまり、味覚が同程度だからといって美味しい/まずいの判断が同じわけではないということです。
これは絵を事例に考えると非常に理解しやすいと思います。
絵を美しいと感じるかそうでないかは千差万別。それは個人個人の好みが違うからですよね。
絵も食べ物も、ある程度は生物学的に合理的な本能に基づいて良し悪しの判断がくだされるはずです(機能が高いものを美しいと感じる、栄養価の高いものを美味しいと感じる、など)。
しかし、それでも絵の「好み」がこれだけ千差万別であることや、味覚レベルを揃えることはできないまでも食の「美味しい/まずい」の感覚がこれだけ千差万別であることを考えると、食の「好み」も当然に千差万別であり、「美味しい/まずい」の判断に大きな影響を与えていると考えるのが自然でしょう。
以上、繰り返しになりますが、味覚が鋭いと、美味しいと感じるものが異なる(ことがある)と考えられる、というのが大事なポイントです。
優れている=正しい ではない
次に、1.と2.の価値について考えてみます。
1.はエンタメ的な利点であり、あまり本質的な価値はないと考えられます。
続いて、2.について考えてみます。
ポイントは単に「異なる」に過ぎないということ。
このあたり勘違いしがちなのですが、味覚が優れていたところで、その人が「美味しい」と思うものは、ただ他の人と違うだけ。
別に味覚が優れている人が「美味しい」と言ったものが正しいわけではなく、単に標準から外れているだけです。
味覚が鋭い人が選ぶ「美味しいもの」も、味覚が鈍い人が選ぶ「美味しいもの」も、標準から外れているという意味では全く変わりありません。
一流料理人がコンビニ商品を評価するテレビ番組や、高級食材を当てる正月特番、ミシュランガイドを見たりすると、なんだか「本当に美味しいもの」や「本当は美味しくないもの」があるような気がしてしまいますが、そんなものは存在しませんし、当然ながら優れた人なら「本当に美味しいもの」が分かるということもありません。
食べ物には個人の好き嫌いがあり、それぞれの食べ物に対して、どれだけの人、どんな人が好むか、どれだけ希少で、どれだけの値段がついているか、といった違いがあるだけです。
だから神の舌を持つ人の情報は役に立たない
例えば、美味しいお店や商品を他人に教えるとき、
あるいは、自分が美味しいと思う料理を振る舞うとき、
その「美味しい」という感覚は、より多くの人と一致するほど、価値がありますよね。
そしてその感覚が一致するには、「味覚のレベル」と「好み」が近い必要があります。
つまり、価値の高い=打率が高い=より多くの人に支持される「美味しい」の感覚を持つ人とは、標準的な「味覚のレベル」と標準的な「好み」を持つ人です。
神の舌を持つ人とはつまり、超少数派の味覚レベルを持つ人であり、極めて異質な「美味しい」の感覚を持つ人である可能性が高いため、打率の低い=役に立たない人であるということになります。
味覚が鋭いことの価値って?
では味覚が鋭いことは欠点でしかないのかというとそんなことはありません。
味覚が鋭いことは、本人にとっては良いこともあります。
なぜなら、食べ物から多くの情報を受け取ることで、より大きな快楽を得られる可能性が高いからです。
このあたりについては、下記の記事でも触れました。
また、他人に対しての話でも、味覚が鋭い人と鈍い人を比べたとき、味覚が鋭い人だけの強みがあります。
それは、味覚が鋭い人は、自分より味覚が鈍い人の感覚を想像することができることです。
それは味覚が鈍い人にはできません。
なぜなら、味覚が鈍い人はそもそも情報が見えていないので想像しようがないからです。
一方で、味覚が鋭い人は、食べ物を味わうときに一部の情報がない状態を想定することで、ある程度は標準的な人の感覚をシミュレートすることが可能です。
「この微妙な香りは分からないだろうから、どっちでも同じだな」とか、「このままの方が味わいは深いけど、もっと塩気を足してジャンクにした方が好まれるだろうな」とかですね。
特に、料理を作る側で考えると、ある程度は味覚が優れていた方が、各味(甘味・塩味・酸味・苦味・旨味)をもれなく捉えられますし、標準的な感覚をある程度客観的に見ることもできるので、一定の利点があるといえるでしょう。
ただこれもやはり「神の舌を持つ」ような極端なレベルになると、自分とかなりかけ離れた感覚を想像しなければならなくなるので、「ほど良い」レベルが良さそうです。
今回は以上です。
関連
注
*味覚が鋭い:食べ物を味わうためには味覚だけでなく嗅覚や経験、意識など様々な要素が必要とされるが、この記事ではわかりやすさを重視し、それらすべてを含めたものとして単に「味覚が鋭い」と表現する
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?