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瞑想の深まり

四禅定

瞑想の深まりを説明した四禅定(しぜんじょう)というものがあります。初禅・二禅・三禅・四禅と次第に瞑想が深まっていきます。

瞑想は、呼吸という1つのことに注意を集めて心の散乱を抑え、鎮めていくのが基本で、それによって、まず初禅に至ると以下の感覚が得られるとされます。

 ・尋(覚)

 ・伺(観)

 ・喜

 ・楽

 ・心一境性

尋、伺は細かな意識のはたらき、心の微妙な揺らぎです。瞑想の初心の時は、なかなか心が安定せず、落ち着きません。落ち着けようと思うと逆に乱れてしまいます。その時の心のはたらきが尋、伺です。

その尋、伺の先に、何とも言葉にできないような喜びや楽な感覚が、喜と楽です。初禅から進んで第二禅にいくと、尋、伺が消えて喜、楽だけが残ります。さらに進んで第四禅までいくと、喜や楽も消えた、清浄な心が現れてきます。もはや理性ではどうにも表現できない、心身が一体となった感覚といえましょう。心一境性とは、心のはたらきを呼吸などの一点に集中させていった結果、自然と心身が一体化された状態のことだといえます。

瞑想は感覚の世界

というような説明がよく見られるのですが、瞑想は感覚の世界ですから、自らの内側で感じたことを文字や文章に正確に表して人に伝えようとしても、それがそっくり伝えられるかどうかは難しい面があります。一流のスポーツ選手が自らの感覚の世界を具に伝えることが難しいように、スポーツの領域でも同じことが言えるでしょう。

お釈迦さまの説法は対機説法であり、相手の能力やコンディションによって様々な教えが説かれているように、どのように真理へと導いていくかはとても難しいのです。瞑想に関しても、上記のようにその深まりが、尋・伺・喜・楽・心一境性などの形で説明されていて、そのさらに詳しい解説が色々なとこで述べられてはいるものの、自らが実践して、それと照らし合わせていくプロセスが一番大事なことです。

仏教瞑想では、いわゆる理性によるはたらき、心のはたらきを抑えていった末に感じられる何らかのものを重要視します。その時点に達すれば自分と他者に区別する意識はなく、究極をいえば自分と自然とが一体となる感覚が得られるのでしょう。よく、無分別智という言葉を使いますが、物と物とを分けることがないことはおろか、自分と他者との区別もなくなった智慧が、深い瞑想の中で現れてくるとされます。

この境地を感じるまでには、長い瞑想経験が必要なのでしょう。個人的な経験からいえば、確かに理性的な意識のはたらきが徐々に抑えられていき、呼吸だけがある状態を感じる瞬間はあります。これがより長く続けられるようになると良いのかもしれませんが、まだまだ修行が足りないようです。


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