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僕たちと、あなたたちのおばあちゃんの話


「助けること」や「感謝すること」、そんなことについて考えるとき、僕はいつも祖母のことを思い出す。

僕の両親は共働きだったから、よく家の隣に住む父方の祖父母に預けられていた。祖父も仕事をしていたので、祖母といる時間が多かったように思う。

祖母は、慈悲の人だった。

いつもどこか誰かの、それがたとえそれがどんなに遠くても、その人の苦しみを思って、自分のことのように苦しみ、そして時に涙していた。

覚えているのは、ソマリアの難民の子供達のことを言うときのことだ。

「ソマリアのおぼこ(子供)はかわいそうだあ。」

たぶん僕も兄も、最初に覚えた外国名はアメリカでも中国でもなく、ソマリアだった。

そのくらい祖母はテレビでソマリアの難民キャンプの様子を見てはソマリアの子供達を嘆いていた。

僕たちは何が起こっていて、何がそんなにかわいそうなのか分からなかったし、大げさにさえ見えるその祖母の様子を見て、

「あれは、ぎぜんだよね〜」

なんて、どこで覚えたのかひどい言葉を意味も分からずに言っていたような記憶がある。


***


ある時からそんな祖母のもとに、近所に住む中国人の家族が遊びに来るようになった。

田舎に住んでいたこともあり、外国の人に馴染みがなかった(馴染みがあるのはソマリアの子供たち)僕たちは、おそらく両親も含めて少し警戒をしていたように思う。

どうやら中国人の両親と2人の娘がいて、いつも全員か、母親と娘2人で来ているようだった。

この時は、親にも挨拶をしなさいと言われることがなかったので、階段の踊り場から、玄関や居間で祖母と彼らが話す様子をこっそり見ていたりしていた。

いつも彼らは、これまで食べたことのない、餅のような食感で、甘くて美味しい手作りのお菓子を持って来ていた。たぶん中国のお菓子だろう。今だに名前は分からないが、いつもその家族が帰ると下に降りて行って、そのお菓子を祖母にもらっては食べていた。

だから彼らとはほとんど面識がなかった。

僕は下の娘と小学校が同じだったため、学校で笑顔で挨拶をされたこともあったが、下を向いて会釈する程度の反応しか出来なかった。


***


僕が大学に入った頃だろうか、夏休みで大学のある東京から実家に帰ると、家の中がざわついていた。

父親に聞くと、祖母が例の中国の家族にお金を渡した(貸した)のだという。

娘2人の大学進学のためにお金が必要だが、他にあてがないのだと。

僕たちは、これはいよいよ怪しいのでは、という雰囲気だった。

当時の外国籍の方の進学事情についてはよく分からないし、渡したという金額もどの程度だったのか分からない。

でも祖母はそう決めて、すでに渡してしまった後だったという。

まあ、祖母らしいね、という話で一旦は落ち着き、それ以降なかなか家に帰らなくなった僕は、そんな話があったことも忘れていた。


***


祖母が亡くなったとき、その家族が来てくれたのだと言う話を後に聞いた。

娘は2人とも、大学進学率がさほど高くない高校から、浪人することなく国立大学の医学部に入り、1人はすでに医者の卵だという。

彼女たちは祖母の不幸の知らせを聞くとすぐに訪ねて来て、祖母の死を嘆き、涙しながら、

日本のおばあちゃんのおかげで医者になれる。おばあちゃんをはじめ日本人にはとても助けてもらった。だから日本で医者になって、たくさんの人を助けたい。

そう言ったのだという。

祖母の下には、あの時と同じ、僕の好きな、餅のような食感の甘いお菓子が供えてあった。


***


僕は今、自分のような苦しい思いをした人を助けたい、そんなことを思って、そして少し悩んでいる。

自分のような存在が本当に他人を助けられるのか、誰かを助けることで助かりたいのは、本当は自分の方なのではないか。

そんなことを考えては悩んでいる。

彼女たちはどうだったのだろうか。僕の祖母はどうだったのだろうか。

そんなことを思うとき、「助けること」と「感謝すること」が当たり前のように、つなぎ目なくスムーズに連なってそこにあることをイメージする。

そんな連なりに、僕は入れるだろうか。

でも少しずつ、少しずつ、この思い出が僕の背中をやさしく押しているのが分かる。


伝えないといけない。彼女たちに。

伝えないといけない。感謝しているということを。

伝えないといけない。あのお菓子がとても美味しくて大好きだったということを。

伝えないといけない。僕も祖母が大好きだったということを。

伝えないといけない。僕は今、あなたたちに救われているということを。

たすけてくれてありがとうと。



読んでくださって、ありがとうございました。

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