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32歳時点、自分単位の幸せを大事に。

20代、社会に出始めたころの私は、嫉妬心がとても強かったと思う。

もちろん、自分なりの野心があったり、それに伴う向上心もあってそれで必死に動いていたと思う反面、その裏でステータス性みたいなものにかなりとらわれていました。

ここでいうステータスというのは世の中で語られるよりだいぶ浅い「人から良く見られるため」かなり上っ面だけを見たものです。

いいスーツが着たい、いい時計がしたい、人を従えて先頭を歩きたい、金持ちに見られたいー。それらはその人の努力や実力の末にあるものだと思いますが、当時の私はわかっていてもどこかそうあらなければいけないと考えているきらいがあり、ちょっと成果がでてお金をもらうとすぐそういうことにお金を投じていました。

そして自分よりうまくいっている人を見つけては妬んで、その理想とかけ離れた自分を埋めるように、強がってみたり、豪勢にふるまってみたりしていたような気がします。

向上心や負けず嫌いからくるそれなので無駄だとまでは言うつもりはないのですが、なんかすごく焦っていたな。と今は思うのです

今も成功している人をうらやむする気持ちは変わらないし、やっぱりどこか見栄っ張りな自分が胸の奥にいるのは相変わらずです。常に新しい事に取り組んでいる方々を目にしたりすると焦って、自分とのギャップに落ち込んだりすることもあります。

でも、最近そんなことばかり考えてもすぐに自分が変わるわけではないし、その姿を追いかけるようなことをしていてもしょうがないな、と考えるようになりました。

で、最近意識しているのが、自分単位の幸せです。

ステータスというのは、人から見られた評価に近いものがあると思います。確かに必要かもしれませんが、私はそれを違う方向はき違えて自分に強制していた。なるべく高いスーツを買ったり、その場の見栄のためにおごったりしてきた。もちろん結果としていつもバリっとしているみたいな印象を持ってくれたり、おごったことによる感謝はされるけれど、自分の人生単位でみたときに結構その場限りのことが多い。

ある日、ディズニーシーのマジックランプシアターに行ったとき、ジーニーが、偉大なマジシャンにする魔法を求めるシャバーンに対し、「本当の偉大さとは経験によって身につくもの、そして素晴らしいパートーナーも必要。」と言うセリフが妙に響いた時がありました。

ステータスも、一時的な見栄で身に着けるものではなく、自分の努力の結果でついてくるものだし、それがあるように見せることはかえって自分に不要な負荷をかけて、空回りさせるんだろうな、と今では思っています。

今時点での自分単位の幸せは、妻と一緒に、そしてこれからできるであろう家族が楽しく過ごせることだと考えています。

だから、やるべきことはいいスーツを着ることでも見栄を張ることでもない。今自分が向き合う仕事や、これから自分ができることを考え、ひとつひとつを実行する。人と比べて嫉妬する自分が顔を出しそうになっても、自分単位の幸せに立ち返って移り気になりそうな自分を引き戻すようにしています。

世の中の価値観が変わり、新しく面白いことをバンバンいる中、「自分単位の幸せ」をどう保っていくのかを考える。保守的に聞こえますがそうではありません。

新しいことを始めようとしたときに、人に何をいわれようと、自分単位の幸せをより大きくできると思うのであれば、貫く勇気とか度胸も必要だし、逆に勢いとか、その場のノリで動こうとしているときに自分単位の幸せを脅かさないかどうかを考える慎重さを持ち合わせることも必要だと考えています。

これは自分とっては迷った時や選択の連続の30代入りたての立場としてわかりやすく存在してくれている考え方です。

多分、今活躍されている方からするとなんの変哲もないことを言っているとも思います。でも、このことを書いておくことが自分にとってそれを意識して行動をしていくことになり、それが「自分単位の幸せ」につながることだと考えているので書いてみた今日のnoteでした。

お読みいただきありがとうございました!


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