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死んだら終わりですか?

なにかとても重たそうなタイトルですが…

「死」ということを考えることは決して悪いことではありません。むしろ「生」というものを考えるときには、「死」というものも考えなければなりません。

なぜなら「生」と「死」は紙の表と裏のような関係だからです。

限りあるいのちを生きている私たち

このnoteを見ているあなたは、「生」きています。

そして、見ているということはこのタイトルが気になったからではないでしょうか?

一度は、考えたことがあるのではないでしょうか?

死んだらどうなるのか

死んだら無になる?

天国に行く?

地獄に行く?

浄土に行く?

私はお坊さんなので、聞かれることもあります。もちろん考えたこともあります。

実際はどうだと思いますか?

私の答えはこうです。

「死んだ人にしかわからない」

私たちは、自分や誰かが経験したことしかわかりません。

ですから、「死」ということも亡くなった人にしかわからないのです。

「死」というものは誰もが経験するものであるけれども、経験した人は戻ってくることが出来ないから、生きている人にはわからない。

これが事実です。

ですが、私たちは長くても100年前後のかぎりあるいのちを生きているので、最後には「死」を迎えなければなりません。

死んだら終わりですか?

みなさんは死んだら終わりだと思いますか?

私は、「死んだら終わりであってほしくない」と思います。

そうだったら、なんか寂しいですよね。

生きているのが辛くなりますよね。

じゃあ、どうあるべきか。

生きている人が死んでいる人を終わらせてはいけないのです

また、あえる世界がある

私の所属する浄土真宗のお寺の本山は京都の東本願寺というところです。

真宗大谷派、通称:お東です。

そこから出版されている、「同朋選書9『正信偈のこころ』」の4ページ目にこんな言葉が書かれていました。

「この世の別れが最後ではない。またあう世界があるのだ。」

偉い先生の言葉でもなく、とある葬式に来られた方の何気ない一言だそうです。

この言葉が全てだと思います。

「亡くなった人とまたあえる世界」があるのです。

私はこれを「出遇い直し」と呼んでいます。

仏教では、「であう」という言葉を使うときに、「出会う」ではなく「出遇う」を使います。この「遇」という字は、なにか待ち合わせをして会うとか、こちらからであおうと思ってあったのではなく、思いがけずに「であう」ときに使います。

亡くなってから、

・あの人の大切さを身にしみて感じた。

・あの人の言葉が今でも忘れられない。

・あの時、もっとこうしてあげればよかった

・あの人は幸せだっただろうか

こんなこと、考えたり思ったりしたことありませんか?

これって「出遇い直し」をしている瞬間なんです。

生きているときはこんなこと考えれなかったけど、亡くなってはじめて考えれた。

もう二度とその人と、会えないからこそ素直になって思い返せる(出遇える)ことがあるんです。

ですから、死んだら終わりではありません。

亡くなった人が終わってしまうのは、あなたの心の中から消え去ったときだと私は思います。

お葬式をする。法事をする。そして、お坊さんの話を聞く。

これって亡くなった人と別の世界であっている瞬間なんですよ。

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