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森岡篤史『炎天街』「文學界」2020年6月号

2020年上半期同人雑誌優秀作

 罪について考えるときに、いろいろなアプローチがあると思うが、次のような考え方もひとつある思う。
 生まれながらの悪人はいないだろう。生まれたばかりの赤ちゃんを見たときに、たとえその子の親が極悪人であったとしても、その子が必ず悪人になるだろうとは考えられないだろう。しかしそうした赤ちゃんたちが成長する過程で、悪人になっていき、その行為を判断するときに重要なものさしとして、その動機が本人の自由意志に基づくものか、それとも不可抗力によるものかということがあるだろう。
そしてその度合によって罪は決まるのだろう。
 当然にこの判断を行うときに、被害者の被害の実情が大きな判断基準であって、加害者と被害者を同じレベルで判断するとうことではないことはもちろんであることには触れておく。

 そういう観点から見ると、この作品が、その犯罪に対して内面で罪の意識があるかないかということと、その行為、すなわち外形的行為からみての犯罪であるという事実との対立が簡潔に表現されている。

 鈴本の行為は外形的に見れば、精神的な錯乱に基づく殺人だが、鈴本の内面では二人の子供を殺害した動機はみちなちゃん誠実な心と、悪ガキの素行の悪さを比較した結果と解釈することもできる。

 ところで、鈴本の行動を詳細に見れば、床屋からコンビニを経て公園を3回巡っている。1回目でははじめてみちなちゃんに声をかけたことについて自ら非常識出ることを反省している。またみちなちゃんのような小さい女このから『殺す』という言葉が出たことに軽くショックさえ受けている。
 しかし2回目ではすでにその反省は消えているように思える。
 そして3回目では特に躊躇なく500mlの缶チューハイを買ってから公園に行き、一気に非常識のレベルが上がる。

 さて挿入されている9つの「証言」によれば、みちなちゃん自体がいないことが明らかになったので、少なくとも1回目の公園に行ったときから、鈴本の精神錯乱があったことになっている。
 この9つの「証言」のうち、7つは目撃談であるが、残りに2つは違っていて、7番目は殺された子供の素行の悪さを訴えたものになって、最後の「証言」だけが鈴本が子供二人を殺害した事実を告げている。そしてこれらの証言をどうつないでも鈴本の内面には至らない。それが冒頭に触れた対立のことである。

 今度は鈴本の内面にみちなちゃんが現れたいきさつについて考えてみた。鈴本がみちなちゃんの家庭について想像しているときに、自分がこういった家庭を持てないだろうと悲観していた。しかしみちなちゃん自体が幻だったのだから、むしろ鈴本のなかにあるコンプレックスが具現化して、みちなちゃんを登場させたことのように思える。一方で鈴本の内面を追う限り、みちなちゃんのアリにたいする気遣いが犯罪を正当化しているロジックにも見えてくる。
 いずれにしてもみちなちゃんという存在は、鈴本の中にある社会人として未だ何かの達成に至らないことの、対極的な存在の象徴して現れているように思えた。
 こうして考えてきたときに、社会人として、あるいは自分の性別・年齢・社会的地位などに、ふさわしいとされる概念と比較して、どの程度実現できているかと考えたときに、多くの人はそうした意味での自己実現を達成していると言い切れる人はきっと少ないはずと思った。そうしたところから改めて鈴本を眺めてみて、鈴本が地続きの存在であるように思えてきた。なので二人の子供を殺した人間に対して、簡単に突き放すこともできない存在に思えてくることになってしまう。
 被害者がいる限り、加害者の罪は無くならない。この作品では子供が二人殺されている。ましてや鈴本がこの子達を殺さなければならない合理的な理由な何もない。多分極刑がそれに近いも罪を追うことになる。だから私は思うのだが、鈴本の内面から見るならば、上記にあるように、鈴本は少なくとも私の地続きにある。そしてそのことは恐怖であり、悲しみである。なのでもしかしたら、加害者の犯罪行為の原因について迫ることは、とてもつらいものなのだ。これがつらいから、多くの事件が勧善懲悪的な紋切り型に再構成して、自分から距離を置こうとする。理解できないから区別しようとするのではなく、理解したくないから考えないようにする。証言その九がそれを象徴しているように思えた。 
 淡白な表現に感じたが、だからこそよりリアリティーを感じた。


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