ちょっと苦くて、やわく甘い

夜の喫茶店が好きだ。まるで誰ともかかわりがないみたいに、ぽつんと存在している気持ちになる。
実際は決してそんなことはなくて、誰かと繋がっているし一人ではないけれど、まるで自分の周りに柔らかな繭が存在しているみたいに感じるのだ。
ベール。あるいは、絹のようなレースカーテンのような、柔らかな布がそれぞれの身体に巻き付いているみたいに。その布は私達を包み、護り、あるいは、その中にひとりで――あるいはふたり以上で――とじこもって甘やかに、苦く、切なく、楽しく、夜を過ごす。
私はそんな想像をする。そんな風に見えてくる。誰も彼も、柔らかな布に包まって。毛布より薄く、麻より柔らかく。心も体も包み込む。そんな幻想。
喫茶店のドアベルを背に、店員に案内された席に座る。柔らかなソファがしっくりと身を包み込み、豊富なメニュー表をめくれば心は穏やかに波打つ。

夜の過ごし方を私はそんなには知らない。
飲み歩くことは好きではなく、賑やかな場所も得意ではないから。それでも、こうして自分だけのお気に入りを堪能することが密やかな楽しみでもある。何より私はこの店を気に入っていた。何度通っても、一年以上たった今でさえ、まるで初めて来た客の様に対応してくれるから。そこには客へのもてなしはあっても、馴れ合いはない。心地が良いと思う。もしかしたら、私以外のもっと長いお客さんには常連客と店の見えない付き合いがあるかもしれないが、私はそれを求めてはいないので。
だから私はこの店をすぐに好きになった。居心地は良いし、飲み物は美味しい。静かな店内は、その場に合う立ち居振る舞いを誰もがするから。密やかにけれど楽し気に話す声は邪魔に感じないし、店内の音楽はクラシックがボリュームを絞られて柔らかに響いている。食器を洗う音も、飲食物を用意する音も決して邪魔じゃない――このお店は飲み物のメニューが豊富で、食べ物はトーストと焼き菓子くらいしかないからかもしれないけれど――。
ここは私のオアシスだった。心を甘やかすための場所。ひとりぼんやりと喫茶店に座り、一杯分飲み干すまでの時間。

私はその楽しさを好きだった人に教えてもらった。彼――Kとしよう――と私は大学の同級生で、学科のグループ発表の班が一緒になったことで仲良くなった人だった。男女合わせて6人、グループ内の仲は何故か良く、それぞれ大学に入って初めてできた友人同士ということもあってかそれから卒業までずっと仲良く過ごした。卒業旅行もそのグループだったし、それぞれに付き合いが出来ても、何故か時間があれば食堂で集まっては延々と話していた。試験勉強も遅くまでファミレスでしたし、打ち上げも夏休みも冬休みも、飽きずに一緒だった。その中でも私はKと話すことが多かった。彼は朴訥とした真面目な男子だったけれど、本を読むのと喫茶店がすごく好きな人だった。彼の話は面白かったし、何より、周りをよく見ていた。私達6人が衝突することなく仲良しのままだったのは、さりげなくKがフォローに入ったり合いの手を入れてくれていたからだと私は知っている。だからみんな彼のことが好きだった。恋愛的な意味で好きだったのは私だけだったかもしれないが、私は誰にも、Kにでさえ、この気持ちを伝えていない。
――私はKを好きだったし好ましく思っていたけれど、そこに男女として付き合いたいという欲求がまるでなかったのだ。
近すぎたのかもしれない。大学や休日、イベントで近くにいて、お互い時間が空いていればKのおすすめの喫茶店でコーヒーを飲んだ。お昼も食べたし、二人で出かけたりもした。けれど、私はKとキスをしたりセックスをしたりする姿を想像することが出来なかった。
Kだって普通の男の子で、飲み会でそういう話をすることもあったし、彼には彼女がいたこともある。私だって男の人とセックスをしたり、デートもした。それでも私はKと一度もそうなることを望まなかった。選ぶ、選ばれないにかかわらず。
メニューを閉じると店員が近寄ってきてくれたので、私はカフェモカを注文した。Kが好きだったメニュー。エスプレッソにチョコレートシロップを垂らし、スキムミルクを混ぜた飲み物を、彼はずっと飲んでいた。
――カフェモカ、こどもの頃初めて飲んで衝撃だった。こんなに美味しものがあるんだって。それから俺は喫茶店ではカフェモカを飲むことにしている。
彼の良く分からない主張は楽しかったし、確かにカフェモカがメニューにあればそればかりを頼んでいた。私はいつも違うものを気分で選ぶのが好きだから、Kの好きなものを一途に愛し続けられるその頑なさと誠実さがたまにうらやましく感じていた。それは、今もきっと変わらない。

私がこの喫茶店に通う理由の一つは、居心地がいいことだが、もうひとつだけ理由がある。Kとこの店の店員さんの雰囲気がよく似ているからだ。
だからこそ、私はついここに足を運ぶし、常連客として親しくなることのない関係をとても好んでいる。
そっと置かれたホットカフェラテの白いマグを両手で包みこむと、甘やかな匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。このお店のカフェモカは生クリームを使ってあるのでこっくりとした濃厚さで、満足感が高い。
店内は私の他にグレイヘアの上品な女性とスーツ姿の壮年の男性がそれぞれ座っていた。
Kはこのお店のカフェモカを何と言って飲むのだろう。
チョコレートとコーヒーの相性は抜群だ。つい食べてしまう組み合わせ。
それでも、私が一番美味しいと思うのはいつもたった一つだけ。
私とKが大学の隙間時間によく足を運んだ喫茶店のカフェモカが一番美味しいと今でも私は思う。学生向けの安価な値段設定の店はいつも賑わっていたけれど、カウンター席は日陰で少しだけ暗っぽくて人気がなかった。だから私たちはいつもカウンター席に並んで座り、Kはカフェモカを私はその時に気になったメニューを注文しては真面目なことからくだらないことまでを話しあった。例えば、試験の内容についてとか、互いの一人暮らしの自由さと不自由さだとか。男女の関係になることは決してなかったけれど、私達はその時確かに一番近くにいた男女でもあった。
仲良しだねえと言われることはあっても、まるで同性同士の気安い態度をお互いに取っていたから男女の関係を疑われることはなかった。Kに彼女が出来ている時は二人きりになることはしなかったけれど。
私がカフェモカを飲んだのはその店でが初めてだった。Kは自分の好きを押し付ける人ではなかったけれど、ひどく美味しそうに飲んでいたから飲みたいなという気にさせたのだ。
「ねえ、カフェモカってどんな味?」
「ちょっと苦くて、でも甘い」
「コーヒーとチョコレートシロップ?」
「飲んでみたらいい。こういうのは体感するのが一番いいんだ」
「そうする」
そうして私はKと同じカフェモカを注文して、一口飲んでびっくりした。コーヒーの苦みとチョコレートの甘みが程よくて、とてもとても美味しかったから。私の吃驚した顔を見てKはとても嬉しそうに笑った。
「俺も小学生の時、姉さんと飲んでびっくりしたんだ。俺も今の――と同じ顔をしていたと思う。そうか、こんな気持ちになるんだな」
Kにはうつくしいお姉さんが居た。その人は白いワンピースの似合う柔らかな女性で、写真で見ただけだったけれどKととても仲が良いようだった。一緒に喫茶店で飲んだカフェモカが今も忘れられないくらい美味しかった、とKはいつも語っていた。その顔はとても優しくて愛に溢れていて、同時に苦しそうだったのを覚えている。
小学生のKが姉と同じカフェモカを頼んで、その美味しさにびっくりした顔をした時、Kのお姉さんはきっとひどく幸せそうな顔をしたのだろう。Kはその過去を思い出している様に、自分のマグから一口飲んで目を閉じてしまった。私はその顔が一番好きだなと今でも思う。
そしてその時飲んだカフェモカが未だに忘れることが出来ないくらい一番美味しかった。それを超える味は、申し訳ないけれどきっと来ない。それが何故かは、私も解らないけれど。どうしてかあのチープで安価な、この喫茶店より遥かに簡単に作られているだろうカフェモカが一番なのだ。
大学を卒業してそのまま就職した私と、地元へ帰ったKはそれきりで、私は学生時代に通った店に行くこともなくなったから思い出の味になってしまっている。そして困ったことに、それを上書きしたいと思っていないのだ。

飲み干したカフェモカは美味しかった。そして私は、その味が思い出を上回らないことに一番ほっとしている。

Kは今どうしているだろう。カフェモカを幸せそうな顔で飲んでいるだろうか。
元気でいるだろうか。自分から連絡を取ることもない、向こうから連絡が来ることもきっとない。それでも、どこかで願っている。どうか幸せでいますように。悲しい顔をしていませんように。
やわらかなベールを自分に纏わせながら、私は店を出る。
きっと誰かを好きになっても、私はKとの思い出を心の中の不可侵の場所にそっと揺蕩わせておくのだ。



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