結婚はタイミングがすべてなのか?

最近推しカップルが別れた。私の学生時代の同級生で5年以上付き合っていた。風の噂で聞きまさかと思いSNSを覗くと付き合っていた時に投稿されていたものが消えていた。このまま二人は結婚すると思っていた。結婚式に呼んでくれるだろうかと不安になっていた矢先破局を知り、私も失恋した気分になった。二人はいたって順調に見えていた。最近も二人で旅行に行っていたしその姿が微笑ましかった。お互い生活に必要不可欠なものになっていると思っていた。だって付き合って5年ですよ?もう隣にいて当たり前と思うじゃないですか。ニコイチでしょこんなもん。それが突然なくなるなんて私には想像できない。気軽に気持ちを共有できる相手なんて家族と恋人くらいでしょ(適材適所ではあるが)。道に咲いた花が綺麗だった時、ふと見た雲が犬に似てた時、美味しそうなものを見つけ今度一緒に食べたいなと思った時はこれから誰に伝えればいいのか。これを痛感した時に初めて寂しいという感情に気づくのかもしれない。ふとかけた曲があの人の好きだった時、どういう気持ちで聴くのだろうか。早送りしてしまうのだろうか、聴き続けるのだろうか。

 別れる理由は何だったのだろうか。どちらかが冷めてしまったのだろうか。相思相愛に見えていたが、2人にしかわからない溝があってそれがどんどん深くなっていったのか。そんなこと私がわかるはずがないが原因を考えたくなるくらい2人が輝いていた。長いがゆえに日々がマンネリ化してしまったのだろうか。でも長く付き合うとそういうふうになっていくだろうか。隣にいることが日常になることほど幸せなことはないだろう。これからも一緒にいる未来が想像できなかったのだろうか。なぜ?出るはずがない答えをずっと探している。

 よく「結婚はタイミング」と言われる。もし仮に結婚がタイミングゲームならこれほど残酷でつまらないゲームはないだろう。そのタイミングがいつなのか誰にもわからないからだ。結婚の攻略本なんてものは信じられない。結婚なんてその人の結婚観でしか語れない。

 ではそのタイミングとはいつなのか。1人でいることが寂しく感じた時なのか、子供がほしいと思った時なのか、はたまた単純に年齢なのか。

そもそも恋愛のゴールは結婚なのだろうか。ゴールという概念が間違っているのかもしれない。結婚というのは1つの愛の形だろう。この人とこれからも一緒にいたいという気持ちを婚姻関係を結び形に残すのだ。愛というものは目に見えにくいから少しでも目に見えるもので残そうする。写真や映像として残すものもあれば、言葉で文で残す場合もあるだろう。そうして形として残さないと人は不安になるのだ。愛は人を強くする薬でもあるし、人を弱くする毒でもある。「この人がいれば頑張れる」になればいいが、「この人がいないと駄目」になれば一気に人は脆くなる。

上記で結婚はゴールだと述べていたが訂正する。結婚はスタートである。よくよく考えれば結婚してからの時間のほうが圧倒的に長い。そんなパートナーをほんの数年の付き合いで見極まなければいけない。結婚前提の恋愛とはなんてハードゲームなのだろうか。ほぼギャンブルである。しかも答え合わせはどちらか死ぬまでわからない。そんなハードゲームがさらにタイミングで決まると言われているのだからもう無理ゲーである。しかし、そんなハードゲームでも最善を尽くしたいと思っている。自分が結婚できる見込みはまだないが、結婚相手は「この人でいいや」ではなく「この人がいいな」で決めたい。ゼクシィのキャッチフレーズに「結婚しなくても幸せになれる時代にあなたと結婚したい」という言葉がある。なんと素晴らしい言葉だろうか。仰るとおり、現代には結婚などしなくても自分を幸せにできるツールが山ほどある。そんな時代でも一緒にいることが幸せだと感じる人に出会えたらはっきり言おう。その人は勝ち組だと。幸せとはどれだけもらえるかではなく、どれだけ与えるかだと思っている(急に哲学的になってすまない)。そういった与える相手がいるというはとても素晴らしいことだし、より人生を豊かにするだろう。

 これだけ書き進めたが結婚がタイミングがすべてなのかは答えは出なかった。わかったのは、自分は結婚したいということだけだった。

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