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一匹の動物が教えてくれる事

先輩のアドバイス

  仕事の中で教えてもらった事では不十分だと感じていた私であったが、その不安感を察したのか、「大丈夫、動物が教えてくれるから」と先輩は言った。後でわかったのだが、それが先輩の口癖だった。そして、それは本当だった。動物をよく観察すれば動物の方から語りかけてくれる。その場でわからなくても経時的に観察すればわかることもある。つまりよく動物を見なさいというとだった。

言葉は抽象概念

 とはいえ、人が教えてくれる事にも役立つことが多い。なぜなら、人の教えや教科書の中に書かれている事というのは多くの事例、多くの個体から得られた事実が含まれているからだ。我々が直接診ることが出来るよりもずっと多くの個体から得られた情報である。言葉で構成されて、説明もわかりやすい。それは抽象的な情報であるとも言える。

 抽象的な情報は意図的に情報が減らされている。だからこそ解りやすい。解ると分けるは語源が一緒だそうだ。ややこしい枝葉の情報を払ってくれているからこそ、分けやすいし、解りやすい。だが、それが人間判断によるものだからこそ、本当に大事なものが失われている可能性がある。

わかり易さの弊害

  巧言令色少し仁とはよく言ったものだと思う。解りやすい、良い面だけの人の誠実さは少ないように思われる。本来持っている汚い面、欠点も見せてこそという意味ではなかろうか。ユヴァル・ノア・ハラリはファシズムは解りやすく、美しく見えるからこそ、人々にとって魅力的に観えると言った。わかり易さの弊害と言える面であろう。多くの個体から得られた統計量の時点で情報が減っているのに、我々はさらに“言葉”にすることで抽象化して、情報を減らしている。

マニュアルどおりにはいかない

  以前、全ての事をマニュアルどおりにやれば良いという人に出会ったことがある。その真面目さと強い責任感は人一倍の人物だ。だがその人にマニュアルどおりに作業をお願いしても遅々として進まない。マニュアルには作業の抽象的概念が載ってるだけで、細やかな動作は載ってないからだ。マニュアル人間は、独創性がないとか融通が利かないという文脈で使われることが多いが、マニュアルだけではマニュアルに載ってる作業すら実際には行う事が出来ないのだ。

  言葉にしないとわからないと言うが、言葉にしてもわからない事は多いはずだ。なぜなら確実に情報が減っているからだ。言語学の祖と言われるソシュールは単語には恣意性があると言ったそうだ。言葉を使い合う二人の間には、例えば単語の意味とか、何らかの前提知識が無いと会話は成立し得ない。

現場との乖離

  共通の素地を持つ仲間であればあるほど、共通の認識をもつ者同士であればあるほど、使う言語の情報量を割くことができる。それでもやはり現場は日々違うのであり、相対する動物個体は違うのである。我々に関係する法規関係を見ても同じ様な事を感じることがある。とても賢い官僚が作ってるのであろうが。

  さらには全国的な状況を見渡して公益に適うに定めていると考えられるので、我々の知り得ない包括的な情報を使ってまとめていると考えられる。つまり、正しいとは考えられる。だが、現場に適応しようとすると、その法規で当てはまらないパターンが多々ある。情報が切り捨てられているのだ。

  そんなとき、我々は椅子に座ってふんぞり返って造ってるからそんな事になるんだと憤慨しがちだが、実際は優秀な方たちが一生懸命、言葉を紡いでるに違いない。ただ、現場と離れているから、言葉に置き換えてしまうから実際とのズレが生じてしまうのだ。本来ならばこちらからそのズレを訴えていくしかない。

職人気質について

  あと、「言葉で教えてくれ」「言葉で言ってくれたらわかるから」って人ほど、言葉の定義が曖昧だったり、言葉をなおざりに使うのはなんなんだろう。なんだか、愚痴っぽくなってしまった。とにかく、言葉にした時点で抽象化されてしてしまうのは人に伝えるのには有用だが、本当の実態を表現できていないかもしれない。

  そういう意味で昔気質の職人が、言葉では絶対に教えずに、目で見て盗めというのは意外に理に適っているのかもしれない。言葉では全てを伝えらないので、余計な先入観を与えない配慮なのだと思う。だいたい、職人が行う言語化は分かりやすい気がしないので、より正しいと思われる。勝手な口下手イメージではあるが。

個体と全体の本質を示す式

  ともあれ、主張したい本質は「言葉」、言い換えれば多くの動物や事例から抽象した「ナニカ」を使わなかったとしても、目の前の一匹の動物が全ての動物に普遍的な事項を包含しているということである。

もっとも個人的なことは、もっとも一般的である」と臨床心理学者のカール・ロジャースは言った。

  1個体の動物が表現する値が次の構造モデルの式で表されると仮定する。統計の分散分散分析などで仮定として用いられる式だ。

      y=μ+α+β+ε

このときyは測定された値、μは母集団の平均値、αは1つ目の効果(例えば性別)、βは2つ目の効果(例えば年齢)、そしてεは残差とする。
今、αとβの2つの効果だが、3つ以上、例えばγ(例えば出身地)をモデルに加えても良い。

  とにかくそれが母数効果であろうと変量効果であろうと、効果の数が何個であろうと良い。ここで言いたいのは性別とか年齢とか種別とか、ハイデガーが「存在と時間」の中で言っているような非本来性のようなもの、カテゴリー化された皮(式で言うα、β)を剥がしていくと、残るのは本来性、本当の個性であると思う。

  その本当の個性とは式で言えば最後に残された残差εである。この残差εはその名の通り、環境に残る誤差であり、全ての個体に普遍的に発生するものである。つまり、徹底して個人的なものを追いかけた結果、残るのはとても一般的なものであるのだ。これを悲観的に捉えないでほしい。

  むしろ、個体の中に普遍性が眠っていると興奮してほしい。ヒンドゥー教には究極の悟りとされる「梵我一如」という思想があるそうだ。宇宙を動かしている原理原則である梵(ブラフマン)と個人を動かしている原理(アートマン)が同一であると悟ることとされている。まさにこの事ではないかと私は思う。

個体をじっと観察する

  しかし、そこに至るためにはカテゴリという硬く、かつ薄い皮を丁寧に剥いていく作業が必要である。粗忽に皮を剥いてしまうと、一緒に実までついて来て、後に何も残らない。その一つの果物に向き合い、真剣に取り組むことが求められるのだ。一芸に秀でる者が多芸に通ずるのはこのおかげかもしれない。

  個体を経時的にじっくり丁寧に観察すれば、εを感じることが出来る。それは普遍的なものである。一方αやβを推定しようと思うと他の個体のデータを集めなくてはいけない。カテゴリの皮を剥いていくためにはある程度必要になると考えられる。しかし、現代はそちらを優先し過ぎているのでは無いかと思う。

  ビッグデータ、機械学習、IoTなんやらかんやら、膨大なデータから効率的にコスパよく、成功の方程式を導き出す。それはまるで厚く剥いた皮をたいそう有り難がって、祀っているようなものだ、その実がすでに失われているということも気づかないままで。それが行き過ぎた資本主義のなれの果てだろうか。

多数に向き合うより個人と向き合う

  以前「戦争は女の顔をしていない」を読んだ時に感じたのは、一人の人間に対して真摯に向き合った時、強く聴こえてくるのは、喜びや悲しみの生身の人間の感情のゆらぎであり、多くの人間から抽出されて非人間的になってしまった主義主張や大義名分ではないということだ。

  かつて国連事務総長だったスウェーデンの政治家、ダグ・ハマーショルドは「多くの人を救うために熱心に働くよりも、一人に懸命に奉仕する方が尊い。」と言ったそうだ。これは多くの人の「皮」に向き合うよりも、一人の「実」に真剣に向き合うことの難しさを語っているのでないかと思う。

  一人の人間、一匹の動物、一つの仕事に真摯に向き合っていきたい。それは、そこはかとない怖さもある。でも大丈夫、耳を澄ませば、自然は小さな声で道を教えてくれている。

そんな事を思いながら今日も動物たちに文句を言われながら過ごすのである。

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