街と性とカラダと心、そして『全部を賭けない恋がはじまれば』
ひとつ前のnoteからの続き。
僕はいま九州で平和に暮らしている。
その僕がたまに東京へ行くと、角を曲がるたびに胸がザワつく。
銀座を歩く。
そこの角を曲がる。
振られた記憶が蘇る。
横浜へ行く。
海が見える公園を歩く。
振られた記憶が蘇る。
江戸川を渡る。
東京メトロから川面を眺めようが京成線で眺めようが、
振られた記憶が蘇る。
よく男は恋の記憶をハードディスクのフォルダに保存して、
女はデータを上書きするといわれる。
PCが普及する前はどうだったのだろう。
東京を歩いて蘇る僕の記憶は30年以上も前の話だ。
いいかげん風化しないものか。
そんな僕の、普段は仕舞い込んでいる記憶が
他の町よりも際立って濃厚になるのが、高円寺から西荻の間の街である。
あの頃の僕はどうしてああだったのだろう。
そして。
奇しくもこの本は高円寺で始まった。
中央線は鉄道省のお役人が定規でシャッと線を引いてできたという。
田んぼだったり、灌木が生い茂るようないわゆる武蔵野だったところだ。
そこに鉄路が引かれ新しい街ができた。
人が住み着き始めてから、もう3回くらい世代交代している。
とはいえ地方と違って昔っからの地域のしがらみのようなものは少ない。
むしろ新しく作ろうと、阿波踊りを持ってきたりしている。
高円寺から西荻は新宿に近いこともあって単身者が多く住む。
吉祥寺からあっちは戸建が多いファミリーの街になっていくし、中野からこっちは都会の喧騒に近すぎる。
その街に単身者がたくさんいるとなれば、溢れるのは性である。
それも3代も繰り返せば、街には澱のような、人と性があやなす気が溜まってくる。
大学時代、そして社会人なりたてのころ、僕は抗う気力もなくその中を流されていたように思う。
吉祥寺に可愛い子がバイトしている沖縄料理店があった。
僕はその子に密かな恋心を抱いていた。
そんな男は僕だけではなかったようだ。
ある日、その子たちと通ってくる男たちと「食べると物凄いことになる」という「海蛇のスープ」を食べる会が行われた。
閉店時間までその店で騒いで。
盛り上がった男たちは終電がとっくに終わった線路沿いを歩いて西荻窪の沖縄料理屋さんへ。
そこで朝5時まで飲み続け騒ぎ続けてせっかくの海蛇パワーをさっぱりと使い切ったことがあった。
もちろん可愛い女の子は早々にいなくなっていたし、そのあとお店でも見かける機会がなくなっていった。
ある日、大学の先輩に強引に阿佐ヶ谷の地酒酒場に連れて行かれた。
木枠の窓に感動しつつ貴重だという新潟の酒を散々飲まされて終電がなくなり、友達だった女の子の家に泊めてもらった。
快く迎えてくれたその子をさておいてベッドに入り、秒で眠ってしまった。
何もしていないのだが、むしろその夜のことを考えると今でも夜中にあーっと叫びたくなる。
同級生の女の子のアパートに行って唐揚げをご馳走になったことがある。
その子の妹もいたが、酒を飲んでいる途中で帰ってしまった。
二人っきりになっていい雰囲気になったのだけれど、
なぜか僕が逃げ出したりとか。
携帯がない時代にやたら女の子を待たせたりしたこともあって、
その女性からはいまでもちくちく、ちくちく叱られる。
もうほんとうにどうしようなかった自分の行いの記憶が、東京のこの一画にはまとわりついている。
「一発への期待」から始まるこの本は、ひとりの女の子の不器用ながらも必死な人生の話だ。
生きることの大変さ、どうしようもない格好悪さ。
それをあっけらかんと表現する筆運びは、ひとつひとつを乗り越えていくしなやかさや、脆さとともにある強さを感じさせる。
物語は高円寺から始まり、船橋、錦糸町、五反田、池袋、渋谷、荻窪と続き、そして過去へと遡る。
五反田と渋谷が名前だけ異質だけれど、いずれもガラス張りのビルでもLOFTでもない。
全体的に流れるのは性とカラダと命の絡み合いだ。
中央線というよりも総武線であり東西線的だ。
もちろんCLASSYや素敵な奥さんやDomaniとは無縁な世界線。
東京カレンダーを眩しく眺めながら、もっと逞しく生きている。
文章の向こうに感じたのは石田衣良さんの短編にあるような切なさ。
『ジェシーの背骨』の山田詠美さんのような女流作家かなと思いながら読み始めたら、それは違った。
匂いの肉感が山田さんにはある。
けれど稲田さんの文章から感じるのは、心の匂いだった。
わからないなりに、不器用で自分の心を持て余しつつ懸命に生きている。
そんな時期が自分にもあったという匂いが蘇ってくるのだ。
僕はほんとダメダメなことを踏み台にして、なんとか大人になってきた。
いや。まだなれていないのかもしれないけれど。
だから後半の『第5章 幼少』と『第6章 一周』はたまらなかった。
そこまで最初のプロローグから一気に読み進んだ。
僕と稲田さんとは30歳以上も違う。
それにこの小説のように幼少期に強烈な現実を突きつけられたこともない。
けれど文字を追うごとに、僕の中にあった彷徨い戸惑いとやるせなさのなかに漂っていた匂いが蘇ってくるのだ。
この小説を生み出す努力と才能が世に出たことを静かに喜びたい。
心の奥底の嗅覚まで呼び起こしてくれるような作品を、本当にありがとう。
と思っていたら、11月20日の午後、たまたま帰省されていた作者の稲田万里さんと六本松の蔦屋書店前で遭遇。
こういうことってあるのね。
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